異臭さわぎ

–パキスタン、ローリー

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 ラホールからようやく乗り込んだ寝台車。本当なら駅から数キロ離れた予約オフィスでなければチケットが取れない、といわれたけどなんとかエアコン車両を融通してもらえた。が、寒い。最初こそ「涼しい~ここは天国か!?」とか盛り上がったのだけど、夜も更けてくるにつれて半袖シャツの腕に鳥肌が立ち始める。周りを見渡すと、乗客は各々毛布に包まっている。乗った直後に毛布貸し(有料)が来たのはこのためか…。この灼熱のパキスタンで、凍えるほどガンガンのエアコンの中、毛布に包まって暖を取る。なんか贅沢な気がしないでもないが、温度上げろよ。
 手持ちの手ぬぐいを気持ち程度に巻きつけてなんとか寝ていると、ふと目が覚めた。時計は夜の2時を指している。何でこんな時間に目が覚めるんだ…まて、なんか白い。
 見ると僕の乗っている車両一面に濃く白い霞がかかっている。鼻をつく硫黄臭。──火事か!?まさか、テロ?
 同車両のパキスタン人たちもざわついている。しかし確認に向かった人たちは特に慌てるふうでもなく戻ってくる。何なんだ一体?
 「まあ、なんにしても逃げ場はないし、死ぬときは死ぬし、ほっとこう」と思って、再び寝た。朝目覚めると、何事もなかったかのように静まり返って痕跡もない。結局何が原因だったのかわからないまま、ローリーに到着。ホームでチャイを飲んだ後、トイレで鏡をみると顔が真っ黒に汚れていた。
 写真は明け方に見たインダス川(多分)。

暇つぶし地獄

–パキスタン、ラホール

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 そろそろエンヤ婆あたりに遭遇しそうだ。
 パキスタンにやって来た。やって来たはいいが、前情報、ガイドブック、マップなど必要と思われる諸々を全く持っていないことに気がつく(いや、知ってたけど収集を怠った)。唯一のパキスタン情報、それは僕のノートに走り書きされた「ラホール、リーガルインターネットイン」というホテルの名前とその住所。のみ。しかもラホールは予想を遥かに上回る勢いの大きな街で、その宿にたどり着くまでにも右往左往を余儀なくされる。
 それにしても、この先進むことになるであろう街の名前も、知ってるのはラホール、フンザ、イスラマバードくらい。ちなみにフンザにもイスラマバードにも行く予定はナシ!つまりは情報ゼロ!
 こんな怠けた様な意気で臨んだパキスタン。あれ…英語が通じない…
 ますます包囲網が狭められていく様が脳裏をよぎりつつ、なんとか列車のチケットを予約するためにラホール駅へ。結果、チケット取るのに半日かかり、列車の発車までまた半日。ラホールの名所がナニかすらまったく分からないため、延々駅のホームに座り続けました。退屈に殺されるかと思いました。デリーの古本屋で買った「吾輩は猫である」を2回通して読めるくらいの暇加減でした。
 斯くの如く、ラホールでは全く観光も何もせずに、本日その名を知ったばかりのローリーという街への列車に乗り込む。何もしてないのにやたら疲れた。

さよならインド

–インド、アムリトサル

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 ようやくパキスタン、イラン両国のビザを手にした僕はパキスタン国境近くの町、アムリトサルへ向かった。
 シーク教の総本山である黄金寺院が有名なこの町では、道行く人の多くがシーク教徒の証であるターバンを頭に巻きつけている。黄金寺院をひととおり見て回り、流れてくるハルモニウムにのった聖歌にしばらく耳を傾けながら「不死の池」を足でぱちゃぱちゃやっていると、少年に不審な目で見られた。やめた。
 少しは北にきたのだから、涼しくなるだろうという僕の目論見をぶち壊すかのように、照りつける日差しは強い。というか痛い。黄金寺院、ジャリアンワーラー庭園、ラダック寺院などを見て周り、早々に翌日パキスタンへ移動することにした。
 ひと月ほどいたインド。地方によって様々な文化の違いを感じさせられた国だった。とはいえ僕の行ったところは極わずかで、インドを知ったとはとても言えないだろうけど。行かなかった南インドにも、いつか行ってみたいと思いながら、僕は国境を越えた。

デリー再び

–インド、デリー

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 レーを去るのはいいが、もう一度あの峠を越えるのは気が進まなかったので一気に飛行機でデリーへ戻ることにした。所要時間わずか一時間で、僕は再びデリーに降り立った。
 バラナシからここまで同行してくれていた白ポンの帰国日がやってきたため、見送る。一人になるとまったくやることもなく、ビザ待ちで暇をもてあました僕はメイン・バザールをあてどなく行き来した。
 インドを移動中によく耳にしたインディアン・ポップスを求めてCD屋へ。MP3で127曲入って100Rs!安い。店でチャイを飲んでいたおっちゃんがそれを見ながら、「音楽は食事と同じだ」と言った。いい事言うじゃないか。

ティクセ・ゴンパ

–インド、レー

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 どうしてもティクセ・ゴンパだけは見ておきたかったのでバスで向かう。ゴンパというのはチベット仏教における僧院のことで、数多くのラマ僧が修行を行う場所だ。ティクセ・ゴンパはもともと砦のあった場所に建てられたものらしく、岩山に寄り添うように立ち並ぶ建物群が壮大だ。
 感動してしばらくの間、下から見上げる(息切れしてしんどかったのもある)
 ゴンパからは時折風の音のような、角笛のような音が響いてくる。祈りの一環なのか、何かの合図なのかは杳として知れない。そして鉦の音が。これは後で、階段の途中にある大きなマニ車を回すときに発生する音なのだということがわかった。
 屋上まで登りきると、360度のパノラマだ。やはり月か火星にいるかのようだ。まったくこんなところにも人は住むのだ。完全に非日常的でしばらく茫然と立ち尽くす。
 空が近い───。

王宮に登る

–インド、レー

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 ようやく調子が戻ってきたのはいいけど、このままでは何もしないままレーを後にしてしまいそうだ。とりあえず王宮くらいは見ておこうか、と思い出かけることに。
 レーの旧王宮は、町のはずれに市街地を見下ろすようにそびえている。大きさはぜんぜん違うけどチベットのポタラ宮のモデルでもあるらしく、現在は博物館として開放されているようだ。しかし中はほとんど廃墟の様相だということを聞いて、入場料200Rsを払うのもばかばかしかったのでとりあえず入り口まで行くことにした。
 10メートル歩くたびに息切れして座り込みながらも何とかきつい坂道を向かう。おじいちゃんとかこういう辛さなのかな。でも高いところから見下ろすレーの町並みやその向こうに広がる月面のような風景、抜けるような青い空はとても素晴らしかった。レーに来てよかった、と初めて思った。

養生ラム

–インド、レー

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 退院しても相変わらず風邪によく似た症状が続き、何もする気が起きないため2日間ほどホテルでじっとしていた。さすが標高3500mのことだけはあり、5月も終わりだというのに夜は震えるほどの寒さ。しかし日中の日向では強烈な太陽光線が、ウインドブレーカーを着込んだ体をすぐに汗だくにしてしまう。かといって脱いでしまうと、少し日が翳っただけで一気に冷え込んでくる。

 ホテルにホットシャワーがついているのが救いだ。しかし使用可能な時間は限られていて、午前午後とも6~9時の間だけだという。仕方がないのでお湯が出るのを確認した後速攻でシャワーを浴び、即あったかくしてラムを一杯飲んで寝るという方法で暖をとる。一日経つごとに順調に回復してくるのがわかった。

 ホテルのお兄ちゃんはとても親切で(都度チップを渡すのは当然で、それを差し引いても)、ことある毎に僕のことを気にかけて話しかけてきてくれたり、ホットココアを淹れてくれたりする。ラムも彼のアイデアだ。体が弱っていると、こういう親切が心に染み入るように嬉しい。僕の持っていた折りたたみ式のポータブルスピーカーに興味深々だったので、日本に帰ったらお礼に送ることにしよう。

これはお前のライフラインだ!

–インド、レー

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 レーの病院は、デリーで同行者が食中りになったときに行った病院とはぜんぜん違って綺麗だった。すべての判断を放棄しているうちに入院した僕は、キンキンしたしゃべり方の看護師のおばさんに鼻の穴に酸素チューブを突っ込まれてベッドに寝かされた。しかしチューブのせいか鼻水がだらだら出て不快な上にしばらくすると勝手に外れてしまう。その都度目覚めて何度もセットしなおさざるを得ない。僕はそのうち位置を直すことをあきらめた。するとそれを見たドクターが、

 「これはお前のライフラインだ!絶対はずすな!!」

 といっても何もしなくても勝手に外れるし…。
 病気のせいだとは思うが、かなり殺伐とした精神状態で一晩を過ごし、その間中考えたことは「一刻も早く病院を出たいなあ」だった。よく考えると僕はまだレーの町を一目も見ていない。

 翌日、昼前になってようやく現れたドクターが「もう大丈夫か?」僕「もう大丈夫」それで退院となった。簡単すぎる、と思ったけど文句をいうこともないので沈黙。おばさんに診察代や薬代が気になったので尋ねてみると、ここは政府の病院だからお金はいらないのよ、と教えてくれた。

ルーズモーション

–インド、レー

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 目がさめたら横になっていた。なにがどうやらさっぱりはっきりしない気分で見回すと、すぐ右手に同行者が布団にくるまっているのが見える。どうやら何処かの宿に運び込まれたらしい。宿、といっても部屋ははっきり言ってただの土間である。窓から見える空は曇っていて、昼間のようだけど一体僕はどれくらい寝ていたのかも知れない。相変わらず気分は最悪で、何度も目覚めては眠りに落ちるのを繰り返すと、何度目かには夜になっていた。天井にあると思っていた明かりはどうやらただの「穴」だったらしく、その穴から真っ暗な空が覗いている。僕は目覚めた時点で「ああ、レーに着いたのか」と思っていたのだが実はその宿はレーの80km程手前の村落で、休憩のとき僕が全く目を覚まさなかったために「もうここでおまえら泊まってけ」ということになったらしい。なにもこんな中途半端なところで降ろさなくても…レーまで行けば病院だってある。
 のどが渇いたので水を飲み、そうするうちにトイレに行きたくなってきた。凡そまともに歩けるとも思えなかったが仕方なく起き上がると同時にすっ転び、そして生まれたての小鹿みたいな足取りでトイレを探すけど、はっきり言ってその部屋を出たのすら初めてだったので全く造りがわからない。適当にドアをへばりつくように開けると「穴」があった。どうやらトイレのようだけど、簡単に言うと土の床の2階建ての建物の、2階の床部分に50cm四方ほどの穴が掘られている。それだけのトイレだ。穴からは1階部分というか、所謂トイレの底が覗いている。覗き込むと落っこちそうなのでやめておいた。それにしてもこのトイレは今まで見た中で最強だ。
 結局その宿に何日間居たのか未だによくわからない。
 おそらく1日か2日ほどだと思うけど、なんだかよく判断できないうちに僕はローカルバスに乗って、ガタガタ震えながらレーにたどり着いた。到着と同時に僕は入院した。

レーへ

–インド、レー

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 この旅行に出かける前から、レーはどうしても行きたい場所のひとつだった。とあるブログでレーの写真を見て、その抜けるような、というよりも青黒いとすら表現できる青空に魅せられてしまったのだ。
 そういう訳で、「いよいよだぞ」という浮き立つ気分とともにジープタクシーに乗り込んだ。ヴァシシトからの出発時刻は午前2時30分。到着は午後11時とのことだ。ほぼ一日がかりである。こりゃ疲れそうだな、とその時はそう思うだけだったが、移動するにしたがって僕の体調には予想以上の異変が起こり始めた。
 高山病である。
 レーに至るまでに5000m級の峠を3つ程越えることになるのだが、2つ目の峠に差し掛かった頃、僕の体は明らかに自由を失っていた。まさか自分は高山病になんかならないだろう、と根拠のない自信があったのだが、身体の異常は明らかに強力になっていく。次第に頭痛が始まり、3度目のパスポートコントロールのためにジープを降りたときには既にまっすぐ歩くことさえできない。まるで千鳥足だ。何度もすっ転びながら辛うじてパスポートチェックを済ませジープに戻っても、体中の震えが止まらない。ガタガタする足を押さえつけながら、同行者に「もしかしたらレーに着くまでにダウンしてしまうかもしれない、その時はごめんけど宜しくね」とお願いして眠りに落ちた。後で聞いたところによると僕はそのまま気を失ってしまったようだ。