猫に逢いにゆこう

–トルコ、ワン

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 ワン猫はこの地方の希少種で、その最大の特徴は「左右の目の色が違う」。
 ワンに行けば「ワン猫」がうろうろしている、と思っていたけど、全然そんなことはなくて、やはり希少ということで大学にて繁殖が行われており、そこへ行けば見られるということなので、勿論見に行く。僕のワンでの目的はこれ以外に無いと言っていい。
 無闇にだだっ広いユズンジュユル大学の片隅にある「Van Kedi Evi」で飼育されているワン猫は、飼育されているだけあって滅茶苦茶愛想が良い。ああー、連れて帰りたい…
 わかりづらい写真だけど、目の色が本当に違うのです。
 片目は青色、もう一方は金色。
 中には左右とも青目の猫も結構いて、発現しなかっただけで遺伝子は保有してるのか、それともそういう系統の品種なのかは分からなかった。
 その後ワン湖の水際を探索中、湿地帯にはまりつつワン終了。

適当なる行先

–トルコ、ドゥバヤズット

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 トルコに入国。てっきり国境のすぐそばに町があると思っていたら、45キロも先だという。タクシーに金額を尋ねると、「4リラ。」僕の手持ちの残り現金はピッタリ4リラ。完全に所持金ゼロになって到着した街、ドゥバヤズットでのATMでお金を下ろして、ようやく安心した。
 ドゥバヤズットの街からは大きくアララト山が見える。ノアの箱舟が漂着した山と言われており、箱舟の残骸と言われるものも残っているらしい。本物かどうかはわからないが。
 このアララト山のおかげか、トルコに入るとそれまでほとんど無かった雲の量が突然増え、雨が降り出した。国境でこれほど気候が変わるのには驚きだ。
 ロカンタと呼ばれる大衆食堂に入って、食事をする。ここ数日、まともなものを食べていなかったのもあってか、感動するほど美味い。いっぺんにトルコが好きになってしまった。物価は高いけど!
 宿でTomoさん、Ticcaさん夫婦と出会う。夫婦で世界一周を目指して8ヶ月くらい旅を続けているそうだ。次の目的地はどこか聞かれる。そういえばとりあえずトルコに入る事だけしか考えてなくて、カッパドキアしか知らない。
 Tomoさんたちは少し南の、ワンという町に向かうそうだ。ワン?聞いたことがない街だ。ガイドブックをめくると、なにやら大きな湖があるらしい。まあ、フミさんとの約束もあるし、ストレートにカッパドキアを目指すのが無難だろうな…と思っていたところで、ある単語が目に留まった。
 ワン猫
 次の目的地は、ワンに決定。

バスターミナルの夜

–イラン、イスファハン

 文無しであることに気づいた僕は、一刻も早くトルコに抜けるためにタブリーズを目指す必要があった。ただ、シーラーズでのけいさんとの約束を果たせないことを、まだ伝えることができていない。予定ではけいさんたちも、この日の午後イスファハンに到着するはずだったが日が沈んでもその姿は現れなかった。さすがに自転車3人でのヒッチハイク、そうそう予定通りにはいかないのだろう。僕はあと一日だけ待ってみることにした。しかし所持金はギリギリだ。トルコまでのバス代以外、余分なお金は無い。仕方が無いので、バスターミナルで一晩過ごすことにした。
 夜も更け、誰もいないだだっ広い待合室で「吾輩は猫である」「マークスの山」をめくる。デリーの古本屋で買ってから、何度読み返したかも知れないこの2冊は、確かに他の本に比べて読み返しがいのある本だった。しかしさすがに、眠くなってくる。あいにくこの待合室の椅子は横になれるようなつくりになっていない。仕方がない、外で横になれるところを探そう…とパックをかつぐ。
 ターミナルのベンチで横になって眠る、と、いきなり声をかけられた。見ると、同い年くらいの(イラン人の年齢はよく分からないけど)青年が3人立っていた。しかし当然ペルシャ語なので、なに言ってるか不明。どうやら「ここで寝るな」と言っているようだ。身振り手振りや、わずかな単語から察すると、
 「宿は無いのか」
 「俺たちはここで働いてる」(倉庫番かなにからしい、宿直だろうか?)
 「チャイニーズか、いやジャパニーズか」
 「カンフー!ホァチャー!(それはチャイナだ)」
 「俺ニンジャソード持ってるぜ」
 とか言ってニンジャソード持ってくる3人。えええ。なんで職場にそんなもん持ってきてんだこいつら。するとこちらに渡してきた。つくりは粗く、ずっしりと重い。でも刃はついてないようだ。レプリカみたいなもんか。
 そして期待に満ちた目で忍者剣技を期待しているっぽい。勘弁してくれ。昔剣道かじった記憶を思い出して何度か振って返すと、どうやら満足してくれたらしい。
 相変わらず言葉は通じないけど、フレンドリーな雰囲気に。でもさすがに深夜に3対1は怖えーよってことで人の多い駅前ロータリーに移動。
 駅前のロータリーは車道や駐車場の間に芝が植えてあって、石畳よりは寝やすそうだ、と思ってよく見ると、そこかしこに転がる死体…ではなくて、同じようにバス待ちで夜明かしをする人たち(現地人)がいた。なんだ、全然野宿していいんじゃんとか思いつつ眠る。
 起きたら朝露でじっとり濡れていた。
 よし、今日中にはトルコに抜けるぞ!というか、抜けないとやばい。

失敗

–イラン、イスファハン

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 バスの中の温度計が「56℃」とかいう未知の温度を表示する中、「世界の半分」と呼ばれたイスファハンに到着して一泊した翌日、僕は手持ちの現金が残り僅かになっていることを確認して銀行へ向かった。
 ATMにカードを差し込み暗証番号を入力する。エラー。新生銀行のカードは使えないようだ。クレジットカードを試してみる。やっぱりエラーだ。この銀行では使えないのかと思い、その他の銀行を3・4軒周ってみる。どこか一つくらいは使えるところがあるだろう。
 が、結果は全滅だった。
 同じ宿の日本人旅行者に聞いてみたり、ネットで調べたところ、どうやらイランではカードが全く使えないようだ。VISAは全滅、Masterもカード決済すら殆ど出来ないらしい。
 困ったことになった。というのは、カンボジア以降、何処に行ってもカードが使えたため完全に安心しきっていて、トラベラーズチェックや予備のドルをほとんど持たず現地通貨ばかりでやってきていたからだ。現在の所持金、60,000リエル。約6ドルぽっちだ。もはや安宿にすら泊まれないレベル。
 他の手段を探してみたが、唯一可能なのは現地のBANK MELLI IRANに口座を開いて、東京三菱銀行から送金してもらうことのみ。または、状況を打開出来るかどうかわからないがテヘランの日本大使館を目指すか。どちらも突然一日の猶予もなくなった僕には解決が怪しいものに感じられた。
 これでは自転車を買ってけいさん達に合流するどころではない。先にバスで到着した僕を追ってヒッチハイクでイスファハンに向かっているけいさん達を待っている余裕はなかった。すぐにでもイスファハンを離れ、トルコに入らなければならない。トルコに入れば使用可能なATMがあることは確認した。それにしても、トルコ国境までたどり着くにはやはりお金が足りない。
 救いの神は同じ宿に泊まっていたフミさんという日本人旅行者だった。突然見ず知らずの僕にお願いされたにもかかわらず、非常に気持ちよく30ドル貸してくださったのだ。本気で神様に見えた。
 丁度、フミさんの今後のルートが僕と似ていたため、トルコのカッパドキアで待ち、返済するという約束をして別れた。
 心残りはけいさん達のことだが、選択肢はもう残っていない。一日イスファハンのバスターミナルで野宿して、翌日まで待ってみたがまだ到着しないようだ。結局、合流場所に決めてあったアラジンというカーペット屋のオーナーに置手紙を託して、国境方面、タブリーズに向かうバスに乗り込んだ。
 全てはイランに入る前に準備を怠った僕が原因であることは分かっている。ただこの時は、カスピ海へのルート変更を許さない、運命的な何かの存在を勝手に想像したりして、僕は敗北感を感じていた。

突然の誘い

–イラン、シーラーズ

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 名前だけはなんとなく聞き覚えのあったシーラーズに到着したのは次の朝だった。道中なにかと世話を焼いてくれた英語の話せる青年が、
 「ホテルは決まってるの?よかったら僕のうちに来ないか?」
 パキスタンのZubair家での楽しい時間が頭に浮かんだ僕は、「いいの?行く行く!」と簡単に返事をしてしまった。そしてバスを降り、彼の家に向かう…と思ったら、彼は一人の男をつかまえて「彼はタクシードライバーで、僕の友達だ。彼がホテルまで連れて行ってくれるよ」と言ってスタスタ歩き去ってしまった。あれ?家に連れて行ってくれるんじゃなかったの?…と思ったけど、まあいくらなんでも昨日会ったばかりの人の家に押しかけるのは流石に申し訳ないし、ホテルのほうが気楽な部分も大きい。そう考えて、僕はホテルへと向かった。
 夕方、ホテルの周りをぶらついていると、自転車に乗った3人組に出会う。あれ、日本人かな…と思っていると、向こうから話しかけてきてくれた。「こんにちは!」「こんにちは」「おおっ日本人だ!ちょうどいいここで休憩にしよう!」
 そう言って3人組は「そこ」つまり普通の道端でシートを広げだした。長いこと旅をしているような雰囲気が感じられる。彼らの名前は「けいさん」「ミヤくん」そしてフィンランド人だという「タトゥー」と名乗った。
 いろいろ話しているうちに、なんとその人は「けいの無銭旅行記」のけいさんその人であることが判明。パキスタン、イランと現在は自転車での旅を続けているとのこと。けいさん達に夕食までごちそうになり、話をしているうちに以下のような話が出た。
 「イランの人たちはよく『家に来ないか』と誘ってくれるけど、どうやらあれは社交辞令のようなものらしい」
 けいさんたちは主に自転車移動の野宿生活をされていて、イランの人と話すとかなりの割合で「家に来い」と誘われるそうだ。でも「行く行く!」と言うと途端に「明日は大事な用事があるんだった」「自転車は車に乗らないから、申し訳ない」等と言って去っていくらしい。
 なるほどと思い返すと、そういえば今日の朝の青年の態度はそれに近かったかもしれない。「だからって、決してイランの人たちが嘘つきなんじゃなくて、そういうものなんだろうね」
 僕は日本の京都を連想した。京都では来客にそろそろ帰ってほしい時にはお茶漬けをすすめるという。イランにもそれと同じような、洗練された断り方という感じを受けた。おもしろいもんだ。
 けいさん達はこの後北上して、世界最大の湖、カスピ海を手漕ぎボートで横断するという計画がある、と教えてくれた。「一緒に行かない?」
 一緒に行くとなると、僕の旅の計画は大幅に変更になる。けっこうスケジュール的にはキツキツで、カスピ海横断、そこまでの自転車移動などを考えるといくつもの国を諦めなければならない。しかし、そんなことは普通なら一生できることじゃない。カスピ海を船で横断…その達成感は素晴らしいものだろう。
 しばらく考えたものの、言ってしまった。「行きます」。
 けいさん達はビックリして、「よく考えたほうがいいよ」と言ってくれたが、僕はこう考えた。いくつかの国は諦めることになるけど、それはまたいつか行く機会があるだろう──。このイランの一都市での偶然の出会いは、カスピ海横断なんていうイベントは、多分、二度とない。僕は心を決めて、再度決心を伝え、イラン中部の街イスファハンで再び落ち合うことを約束して別れた。
 ところが次の街イスファハンで、僕はカスピ海どころではなくなってしまった。

目的地変更

–イラン、ザーヘダーン

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 ザーヘダーンからバムへ向かうバスで、チケット確認のために眠りから起こされる。窓の外は真っ暗で、どうやら夜中のようだ。係員にチケットを見せる。と、なにやら大声でまくし立てはじめた。ペルシャ語なので意味不明。
 他の乗客もなんだなんだと振り返る中、英語の話せる乗客がやってきて助けてくれた。
 「このチケットはバムまでだと言ってます。でも、バムはもう通り過ぎました。」
 どうやら寝ている間に乗り過ごしてしまったらしい。周りの人たちも苦笑している。しかし今更降りるわけにも行かない。「じゃあ次はどこなの?」「シーラーズです」
 という訳でシーラーズに目的地変更。追加料金3万リエル。それにしてもイランは移動費(燃料費)が鬼のように安い。なにしろ水のほうが高いくらいだ。追加料金を含めても約1000kmが6ドル程度。さすがはOPEC2位の産油国!
 写真は途中で礼拝のために止まったモスク。

軍用トラック

–イラン、ザーヘダーン

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 イランに入国した。国境から最初の街ザーヘダーンまでは80kmくらいあることを知って、早速バスを探す。と、
 「おい君!ザーヘダーンに行くのか?それなら彼が連れて行ってくれるから急ぎなさい!」
 期せずしてヒッチハイク成功。ラッキー!と思って「彼」を見ると、
 迷彩服でライフル抱えています。見紛う事無く軍人だこりゃ。

 そして同じ服装の軍人5人に囲まれて、軍用トラックの荷台に乗って一路ザーヘダーンへ。イランの道はとてもきれいで、全然凸凹なんかなく、とんでもなく真っ直ぐに伸びている。国境の建物があっという間に地平線に消える。そしてイランの軍人はとても陽気で、流行の歌を大声で大合唱だ。「お前も歌おうぜ!」と言ってくれるのは嬉しいけど、その歌知らねえよ。和気あいあいとした道中、でもまあ客観的に見たら、確実に「不審な東洋人一名、軍に連行されるの図」。
 ザーヘダーン市街入り口でも大仰な検問が張られており、どうやら犯罪者を摘発しているようだ。
 「今この街は通常の状態じゃない。これから国境から離れた街へ移動してくれないか?」
 と、バスターミナルまで送ってくれた。それじゃということで、少し先のバムと言う街までのチケットを購入する。
 
 バス待ちで暑さに疲れた僕は、バスに乗るとすぐに眠ってしまった。これが失敗だった。

男と男の何ですか

–パキスタン、クエッタ

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 午前中には戦闘機が何機も爆音を響かせて横切っていく街、クエッタでアブドゥルに出会う。
 といってもアブドゥルという名前はたくさんいるようで。スタンドは使えないようだ(当然だけど)。
 そのアブドゥルからの質問。
 「日本ではboth boyのsexはあるのか?」
 「ボーズボーイ?」
 「男と男でアレをするのかってことだ」
 「あー。いやー…まあ、あると思うよ、でもそういう人はほとんどいないよ」
 「そういう人たちはオープンにしてるのか?」
 「いや!オープンじゃないなーきっと」
 「そうなのか?」
 「パキスタンではオープンなの」
 「パキスタンはオープンだ。珍しいことじゃない。なんでかっていうと女性とするのが難しい、そっちはオープンじゃないからだ。だから男同士でする。時には相手にお金を支払うこともある」
 「マジで!?」
 「ああ、お前は男としないのか?」
 「しないよ!そうなのかー凄いな…アブドゥルも男のほうが好きなの?」
 「いや、俺は女のほうが好きだ」
 「あー安心したよ」
 カルチャーショック。

 そんなアブドゥルは学校の先生だった。いいのか。
 しかも名門校っぽいし。

 なんにせよ、子どもの笑顔はどこの国でも最高だ。
 

死の丘独行ルート

–パキスタン、モヘンジョ・ダロ

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 遂に来てしまった。世界最古という説もある、世界史の教科書で誰もが目にしたことがあるであろう、モヘンジョ・ダロ遺跡群。
 石の覆いの付いた排水路、整然とした街並み等の高度な設計をされた都市という以上に、未だ解読されないインダス文字、地球の裏側イースター島のロンゴロンゴ文字との異常な類似性、トリニタイト群の存在、埋葬されずに一箇所からまとめて発見された16体の骨、謎の民族、唐突な原因不明の滅亡、古くから呼ばれてきた「死の丘」という名前───。
 アツすぎます。
 そして気温も暑すぎます。
 多分50℃超えています。
 しかも意外と広い。おそらく2km四方はあるんじゃないだろうか。遺跡はいくつかのエリアに別れていて、またそのエリアからエリアまでが遠い。この時期は最も暑い季節らしく、観光客は誰もいない。ただ一人で古代の遺跡に立ち尽くすと、まるで古代の生活の中に入り込んでしまったような気分になれて良いのだけど、昼ごろ2つほどのエリアを見て回っていると、頭がくらくらしてきた。このままでは熱射病になるかもしれない。
 いったん出直して夕方に出かけると、やっぱり暑い。最も遠いエリアに至ると、見渡す限り瓦礫と低木の荒野だ。水も少なくなり、そろそろ戻ろうか…と思っていると、遥か向こうの方からダンボールを肩に担いだ男が向かってくるのが見える。地元の農夫だろうか。すれ違おうとしたとき、男が口を開いた。
 「Water?」
 「えっ?」
 なんとダンボールの中には、ミネラルウォーター、コーラ、マンゴージュース等が詰め込まれている。しかも冷えている!幻じゃないかと思った。どうやって冷やしてるんだ?つか、お前どこから来たんだ??
 混乱しながら代金を渡すと、男は再びダンボールをかついで焼けた遺跡の陽炎の中を去っていった。僕の手にはコーラの瓶が残った。夢じゃないようだ。それにしても、なんてハードな商売だ…でも、まあ、助かった。

ラルカナの家で

–パキスタン、ラルカナ

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 ローリー駅からオートリクシャで川向こうの街、サッカルへ移動し、ラルカナへ向かうバスに乗る。
 パキスタンの人はとても親切で、見ず知らずの胡散臭い旅行者の僕を、言葉が通じなくても何とかしようとしてくれる。バスの中で隣に座った青年、Zubairは「ぜひうちに来い」と言ってくれて、朝からお邪魔することになった。
 彼の家族は20人いるらしい。大家族だ。パキスタンでは一家一族がひとつの家に暮らすので、珍しくはないのだという。
 「彼は兄。となりはいとこ。その隣は弟。この子は兄の子供、いとこの子供…」
 彼ら全員に囲まれて質問攻めに合う。

 「日本のどこから来たんだ?」
 「広島だよ」
 「知ってるぞ、広島・長崎…」

 原子爆弾を落とされた都市として、彼らも知っているようだった。

 「爆弾が落ちた後、広島はどうなってるんだ?」
 「今はすっかり復興して、100万人住んでるよ」
 「後遺症をもった病人はいないのか?」
 「少しは…皆高齢者だけど」
 「この子も放射線病なんだ」

 Zubairが示したのは、いとこの子供の数人だった。
 よく見ると、坊主頭の頭髪がまだらに抜け落ちている。

 「放射線病?なんで?」
 「彼らは以前アフガニスタンにいたんだ。そこで被曝した」
 「アフガニスタンで?爆撃したのはどこの国?いや、実験かな…」
 「イランだ」

 イランが実験や爆撃をしたことがあったのだろうか?僕の聞き間違いかもしれない。
 後で調べてみたところ、もしかしたら、米英のアフガン空爆時に使用された劣化ウラン弾による影響なのかもしれない。
 まだ10歳にも満たないだろう小さな子が、クマの出来た目で僕を見つめている。Zubairが尋ねる。

 「日本の被爆者は、今は治ったのか?」

 僕は答えに困って、「多分」と嘘をついた。