カテゴリーアーカイブ 旅のこと

飽きない路地裏

–インド、バラナシ

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バラナシにて宿の屋上から下の路地裏を見下ろすと、
一人のおばちゃんが窓を覗き込んで世間話を続けている。一匹の犬が向こうから手前へ歩いてくる。世間話が終わったのか、おばちゃんが去っていく。フレームアウトしたところから2人の男が向こうへ歩いて行く。と、向こうの角から牛が現れた。さっきの犬が戻ってきて、牛に出くわして引き返す。牛が通り過ぎると、屋根から屋根へと現れたサルたちが5匹、オートリクシャーの天井をクッションにしてボヨンボヨン飛び降りていく。ゲストハウスのオーナーが帰ってきた…
見飽きない。

インド映画はドラマチック!

–インド、コルカタ

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 インドに来たら映画を見ろ、と言われていたことを思い出し、ポルトガル人のリタに「インドの人はどんな映画が好きなんだろう?」と聞いたら一言「Dramatic!」。
 そしていざ映画へ。当然ヒンディー語で字幕なんかあるわけないので、ビジュアルでストーリーを判断するしかない。でもなんだかんだ言って大げさなので、おおまかな話の筋は理解できた。
 ストーリーは、過って交通事故を起こしてしまった友人の罪を引き受けた主人公の、遺族へ贖罪、その村を仕切るヤクザとの対決、村の娘とのロマンス。あと唐突に始まるミュージカル的演出。これはお約束か。
 映画鑑賞して、わかったことが3点。
(1)女性が画面いっぱいにダンスを始めると客席大喝采。野郎どもの指笛が飛び交う。
   ヒーローが颯爽と現れたり、決め台詞をキメたときも同様の現象が見られる。
(2)半分を過ぎたころ、唐突に「休憩」が入る。皆トイレに行ったりチャイ飲んだり。
   ヒンディー語が分からないので、いきなり終わったかと思って狼狽した。
(3)どうやらインド女性は肩のショールのようなものを剥ぎ取られると恥ずかしいらしい。
 インドカルチャーは奥深い。

ボランティア

–インド、コルカタ

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 マザーハウスでのボランティアに参加した。僕が向かったのは「死を待つ人の家」だ。
 午前中は大半の時間を衣類の洗濯に奪われる。余った時間で、おじいちゃんたちのトイレの世話やマッサージ、話し相手になったりする。
 ざらざらのごつい手をマッサージしていると、その人の生きてきた時間が感じられてとても重く感じる。僕も将来はこんな手になるんだろう。それまでの時間は気を抜いてるとあっという間かもしれない。
 ベンガル語でおそらくはお礼を言われて心が揺れた。
 彼らのためというよりは自分のためにこのボランティアに僕は参加していたからだ。
 「Love one another as I have loved you」というマザーの言葉を最初勘違いして「Love one another as you love yourself」だと思っていた。僕にとってはこっちのほうがしっくりくるように思えた。

インド交通事情

–インド、コルカタ

 空港で乗り込んだ黄色いタクシーは見た目もかわいいし乗り心地も悪くない。運転手のおっちゃんが、自分で焚いているお香にムセて死にそうな咳をしているのを除けば、何ら問題なさそうだ。
 しかし車道に出た瞬間、カーチェイスばりの運転が始まった。隣の車と10cmも離れていない隙間に果敢に突入し、道を渡る人の群れには減速なしで突入し、たとえ救急車であろうと道を譲ったりはしない。そして挨拶のように絶え間なく鳴り響くクラクション。これがインド…。
 運転手のおっちゃんは手馴れたもので、たまに咳の発作がくる以外は華麗に車の隙間を縫っていく(というよりねじ込んで行く)。
 ただ何度目かに人の群れに突っ込んだとき、避けそこなった自転車がいた時には「ウワァー!」とか叫んでいた。どうやら本気で危なかったようだが、あの、安全運転でよろしく。
 インドに無事着きました。

緊迫の客引き戦争

–カンボジア、シェムリアプ

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 遺跡群を見て回っていると、かならず声をかけられる。
 「オニイサン、Tシャツカウ、イチマイ3ドル」。
 Tシャツはいらないよ、というとスカーフになったりバッグになったりテーブルクロスになったりアクセサリーになったり地図、飲み物、マンゴー、とにかくなんでも。
 都度都度断りながらも、たまに「これはちょっと欲しいかも?」と思うものもあり、「いくら?」と聞いて値段交渉が始まる…のは普通のお店。ここでは両サイドの店とも同時に戦う必要があるのだ。
 例えばちょっとしたアクセサリーを買おうかな、と思って一人と交渉を始めると、隣の店から「地図!地図!」。逆隣からは「Tシャツ!Tシャツ!」。
 「いや、地図もシャツもいらないから。俺が欲しいのはアクセサリーなの」と言っても「ナンデカワナイ!スカーフヤスイ!」「地図!2枚で3ドル!」「いや、安い高いじゃなくて、要らないの」「ジャアTシャツ!2枚で5ドル!」とまあ会話にならない。交渉も進まない。
 しまいには「あーもうやかましい!もう全部買わない!さよなら!」と短気な僕が放棄してしまうと、遠くから「ウソツキ!カエレ!」という言葉を投げかけられるという切ない結果になる。
 基本的に英語は通じているようなので要求も通るはずなんだけど、もしかすると、多分、あまり聞いちゃいない。
 ある店で好みのデザインのTシャツを見つけたので、「これいいね、この色違いある?」と聞くと、隣の店のお姉ちゃんから「ある!」と言う声が。そして嬉々として全然違うデザインの奴を持ってきたりする。いやいや、それじゃねえよ。ここまでくると恐れ入るというか笑ってしまう。そしてお姉ちゃん同士で言い争いが始まって僕は放置。全く、この商売根性。遺跡よりも印象に残ってしまったかもしれない。
 商売上手な子は、小さな子でも本当に上手い。引き際をしっかり心得ている。それだけでなく、商品のひとつ、例えば小さなアクセサリーを「プレゼント」とくれたり、自分で描いた絵や、四つ葉のクローバーをくれたりする(カンボジアのクローバーは全部四つ葉だったけど)。そうなると弱いもので、つい「買ってあげようかな」と言う気分になってしまうのだった。
 そしてまんまと買ってしまった訳だけど、まあ、そんなに悪い気もしないな…と四つ葉のクローバーを眺めながら思った。

地雷博物館にて

–カンボジア、シェムリアプ

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 アキラの地雷博物館へ行く。
 アキラさんという人が個人で開いているという博物館は、博物館といっても小さな藁屋根の建物で、安全処理された地雷が雑然と積み上げられているような場所だ。しかし驚くことに、この地雷は全てアキラさんが処理したものだという。
 そもそも僕はアキラさんはその名前から日本人かな?とか思っていたけどれっきとしたカンボジア人で、正確にはアキ・ラーさんという。1998年に終結したカンボジア内戦後、主に都市部に注力される地雷処理のフォローできない地域、例えば農村の「家の裏に地雷がある」というような要求に一人で応えてきた人とのこと。こちらのページで詳しく知ることができます→アキラの地雷博物館
 地雷博物館では多くの地雷・不発弾が紹介されている。しかしそれよりも、並んで貼られている戦争風景の絵の1枚に僕は目を吸い寄せられた。それはクメール・ルージュに酷使される人々の絵だった。人々は牛馬のようにムチを浴びながら畑を耕し、その下に生きながらワニの檻に放り込まれ、食べられていく人々が描かれている。説明文には、「…能率の上がらない人は『おまえは教育が必要だ。学校へ行け』と言われ、二度と帰らなかった。『学校』はすなわち死を意味していた」とあった。
 僕には想像もつかない世界。文字通り僕は言葉をなくした。

遺跡の持つ輝き

–カンボジア、シェムリアプ

 アンコールワット。心の底から憧れていた場所のひとつ。西参道に立った瞬間、湧き上がる興奮を抑えることが出来なかった。崩れかかった参道を、影の落ちる回廊を、当時どのように人々は行き来し、言葉を交わし、朽ちていったのか。参道の脇に横たわるナーガの石像ひとつとっても、百も千も語ることがあると言わんばかりに見える。遂にアンコールワットへとやって来た。

 しかし中へ進むにつれて、興奮はどんどん減退していった。なぜだろう。昔から見たくて仕方のなかった場所なのに。アユタヤのワット・プラマハタートを目にした時のほうが、この興奮は長く続いたようにも思える。
 それが何に因るものなのかよくわからなかった。移動で疲れたせいか、ところどころに目に付く補修の後──木組みや登りやすい角度の後付けの階段、キープアウトの看板──のせいか、それとも溢れかえる観光客の存在か。
 多分、一番近いのは2番目の理由じゃないかと思う。僕の予想より全然、ここは観光地として完成しすぎていたからだ。何かの確認のように僕は遺跡を見て回り、想像の余地はあまりないように思えた。勿論それは僕の勝手な言い草で、そのおかげで僕も美しいレリーフや移動の難しい場所もスムーズに見て回ることができるのだけど。でも、神の領域と言われる第三層の急な階段を上って、参道を見下ろしながら僕は壮大なテーマパークにいるような気分を拭えないでいた。

 そんな気分を引きずったまま、2日後に向かったベンメリアという遺跡で僕は衝撃を受けた。そこにはアンコールワットの中で感じられなかったものを感じられたからだ。ベンメリアという遺跡はほとんど発見された状態のままで、はっきりいってほとんど崩壊しているままだ。奇跡的に一部だけ残っていた回廊に足を踏み入れたとき、吹き抜ける風と一緒に、さまざまなイメージが浮かんだ。幅は細く、高い位置に50×30センチほどの窓が等間隔で並んでいる。真昼だというのに回廊の中はほとんど光が入ってこない。なぜ回廊をこんなに昼なお暗いように造ったのだろうか。ここを歩いたのは誰だろう。崩れ果てた中央の建物は当時一体どのようにそびえ立っていたのだろうか。人々が去り、そして多くの根を伸ばす樹木はどのように成長し、石塔を崩壊させていったのだろうか…想像の余地が至る所に残されていた。

 きっと僕は、遺跡の持つ「明らかにされてない部分」にどうしようもなく惹かれているのだと思う。アンコールワットのコンプレックスは確かに美しい。しかし「なぜ」「どのようにして」という謎が発する輝きのようなものは、森の奥深く、悉く破壊されているベンメリアに遠く及ばなかった。
 僕がただの天邪鬼なだけかもしれないけど、今出せた結論は「きっとそういうことなんだろう」だった。

カンボジアへ

–カンボジア、シェムリアプ

 ラオスはビエンチャンを後にして、再びタイに戻り、夜行列車で一気にバンコクまで戻って来た。早速翌日のシェムリ行きのバスを予約して、約13時間掛けてシェムリアプへたどり着いた…はいいが、着いたところは謎のゲストハウス。聴くと一泊3ドルという。でも僕は最初からある程度有名な日本人宿に行って情報を聞こうと思っていたのでその旨を告げると、いきなり一人1.5ドルになってしまった。
 なんだか怪しいな…と思い、「やっぱり行くことにするよ」と言うと今度は「とても遠い」「その宿は危ない」首をかき切るしぐさをして「殺されるよ」。
 いくらなんでも殺されやしないだろうよ、君のほうがよっぽど怪しいよ、などと考えながら呼ぶ声を後に歩き出す。彼の教えてくれた道とは逆方向に。しばらく歩くと、すぐに目的の宿は見つかった。やれやれ。
 写真は国境の町、ポイペト。

首都、水辺の夕食

–ラオス、ビエンチャン

 ラオスの首都ビエンチャンはそれまでに比べれば喧騒に包まれているように感じた。ただしあくまで「比較的」で、一国の首都としてはやはり小さな印象を受ける。
 バスに揺られながら受けた埃や汗を、薬草サウナで洗い流す。サウナは本当に日本と変わらず、しばらく汗を流して、水をかぶってを繰り返す。まるで風呂に入ったような気分になれる。欧州人らしきおじいさんが、普通の人の3倍くらいの時間サウナに籠っていて、大丈夫かな…?と思いながら牛乳を飲んだ。こりゃまさに銭湯だ。
 すっかり温まったところで、川沿いの屋台でビールを飲んでいると、バンビエンから一緒のバスでやってきた日本人の男の子がやってきて、一緒に飲む。川面に映る町の明かりがまるで広島を思わせて、すぐに気持ちよくなってしまった。

金色の稜線

–ラオス、バンビエン

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 ルアンパバーンで出会った人にお薦めしてもらった、バンガロー造りのゲストハウスに落ち着いた。しばらく町を歩いてネットなどをしていると、どうやらエアコンにあてられたらしくめまいがして来た。前日にルアンパバーンで明け方の冷え込みにやられて風邪をひいてしまい、一日伏せっていたんだけど、治ったと思って無理に移動したのが災いしたようだ。
 どちらにしても、さして他にすることもない町なので、部屋備え付けのハンモックに揺られていると、山の稜線が金色に輝きだした。この景色だけでも、この宿に泊まったのは大正解だと思う。とかリンゴを齧りながら考えているといつのまにか眠っていたようだ。蚊にやられまくっていた。