カテゴリーアーカイブ ユーラシア(2006)

男と男の何ですか

–パキスタン、クエッタ

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 午前中には戦闘機が何機も爆音を響かせて横切っていく街、クエッタでアブドゥルに出会う。
 といってもアブドゥルという名前はたくさんいるようで。スタンドは使えないようだ(当然だけど)。
 そのアブドゥルからの質問。
 「日本ではboth boyのsexはあるのか?」
 「ボーズボーイ?」
 「男と男でアレをするのかってことだ」
 「あー。いやー…まあ、あると思うよ、でもそういう人はほとんどいないよ」
 「そういう人たちはオープンにしてるのか?」
 「いや!オープンじゃないなーきっと」
 「そうなのか?」
 「パキスタンではオープンなの」
 「パキスタンはオープンだ。珍しいことじゃない。なんでかっていうと女性とするのが難しい、そっちはオープンじゃないからだ。だから男同士でする。時には相手にお金を支払うこともある」
 「マジで!?」
 「ああ、お前は男としないのか?」
 「しないよ!そうなのかー凄いな…アブドゥルも男のほうが好きなの?」
 「いや、俺は女のほうが好きだ」
 「あー安心したよ」
 カルチャーショック。

 そんなアブドゥルは学校の先生だった。いいのか。
 しかも名門校っぽいし。

 なんにせよ、子どもの笑顔はどこの国でも最高だ。
 

死の丘独行ルート

–パキスタン、モヘンジョ・ダロ

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 遂に来てしまった。世界最古という説もある、世界史の教科書で誰もが目にしたことがあるであろう、モヘンジョ・ダロ遺跡群。
 石の覆いの付いた排水路、整然とした街並み等の高度な設計をされた都市という以上に、未だ解読されないインダス文字、地球の裏側イースター島のロンゴロンゴ文字との異常な類似性、トリニタイト群の存在、埋葬されずに一箇所からまとめて発見された16体の骨、謎の民族、唐突な原因不明の滅亡、古くから呼ばれてきた「死の丘」という名前───。
 アツすぎます。
 そして気温も暑すぎます。
 多分50℃超えています。
 しかも意外と広い。おそらく2km四方はあるんじゃないだろうか。遺跡はいくつかのエリアに別れていて、またそのエリアからエリアまでが遠い。この時期は最も暑い季節らしく、観光客は誰もいない。ただ一人で古代の遺跡に立ち尽くすと、まるで古代の生活の中に入り込んでしまったような気分になれて良いのだけど、昼ごろ2つほどのエリアを見て回っていると、頭がくらくらしてきた。このままでは熱射病になるかもしれない。
 いったん出直して夕方に出かけると、やっぱり暑い。最も遠いエリアに至ると、見渡す限り瓦礫と低木の荒野だ。水も少なくなり、そろそろ戻ろうか…と思っていると、遥か向こうの方からダンボールを肩に担いだ男が向かってくるのが見える。地元の農夫だろうか。すれ違おうとしたとき、男が口を開いた。
 「Water?」
 「えっ?」
 なんとダンボールの中には、ミネラルウォーター、コーラ、マンゴージュース等が詰め込まれている。しかも冷えている!幻じゃないかと思った。どうやって冷やしてるんだ?つか、お前どこから来たんだ??
 混乱しながら代金を渡すと、男は再びダンボールをかついで焼けた遺跡の陽炎の中を去っていった。僕の手にはコーラの瓶が残った。夢じゃないようだ。それにしても、なんてハードな商売だ…でも、まあ、助かった。

ラルカナの家で

–パキスタン、ラルカナ

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 ローリー駅からオートリクシャで川向こうの街、サッカルへ移動し、ラルカナへ向かうバスに乗る。
 パキスタンの人はとても親切で、見ず知らずの胡散臭い旅行者の僕を、言葉が通じなくても何とかしようとしてくれる。バスの中で隣に座った青年、Zubairは「ぜひうちに来い」と言ってくれて、朝からお邪魔することになった。
 彼の家族は20人いるらしい。大家族だ。パキスタンでは一家一族がひとつの家に暮らすので、珍しくはないのだという。
 「彼は兄。となりはいとこ。その隣は弟。この子は兄の子供、いとこの子供…」
 彼ら全員に囲まれて質問攻めに合う。

 「日本のどこから来たんだ?」
 「広島だよ」
 「知ってるぞ、広島・長崎…」

 原子爆弾を落とされた都市として、彼らも知っているようだった。

 「爆弾が落ちた後、広島はどうなってるんだ?」
 「今はすっかり復興して、100万人住んでるよ」
 「後遺症をもった病人はいないのか?」
 「少しは…皆高齢者だけど」
 「この子も放射線病なんだ」

 Zubairが示したのは、いとこの子供の数人だった。
 よく見ると、坊主頭の頭髪がまだらに抜け落ちている。

 「放射線病?なんで?」
 「彼らは以前アフガニスタンにいたんだ。そこで被曝した」
 「アフガニスタンで?爆撃したのはどこの国?いや、実験かな…」
 「イランだ」

 イランが実験や爆撃をしたことがあったのだろうか?僕の聞き間違いかもしれない。
 後で調べてみたところ、もしかしたら、米英のアフガン空爆時に使用された劣化ウラン弾による影響なのかもしれない。
 まだ10歳にも満たないだろう小さな子が、クマの出来た目で僕を見つめている。Zubairが尋ねる。

 「日本の被爆者は、今は治ったのか?」

 僕は答えに困って、「多分」と嘘をついた。

異臭さわぎ

–パキスタン、ローリー

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 ラホールからようやく乗り込んだ寝台車。本当なら駅から数キロ離れた予約オフィスでなければチケットが取れない、といわれたけどなんとかエアコン車両を融通してもらえた。が、寒い。最初こそ「涼しい~ここは天国か!?」とか盛り上がったのだけど、夜も更けてくるにつれて半袖シャツの腕に鳥肌が立ち始める。周りを見渡すと、乗客は各々毛布に包まっている。乗った直後に毛布貸し(有料)が来たのはこのためか…。この灼熱のパキスタンで、凍えるほどガンガンのエアコンの中、毛布に包まって暖を取る。なんか贅沢な気がしないでもないが、温度上げろよ。
 手持ちの手ぬぐいを気持ち程度に巻きつけてなんとか寝ていると、ふと目が覚めた。時計は夜の2時を指している。何でこんな時間に目が覚めるんだ…まて、なんか白い。
 見ると僕の乗っている車両一面に濃く白い霞がかかっている。鼻をつく硫黄臭。──火事か!?まさか、テロ?
 同車両のパキスタン人たちもざわついている。しかし確認に向かった人たちは特に慌てるふうでもなく戻ってくる。何なんだ一体?
 「まあ、なんにしても逃げ場はないし、死ぬときは死ぬし、ほっとこう」と思って、再び寝た。朝目覚めると、何事もなかったかのように静まり返って痕跡もない。結局何が原因だったのかわからないまま、ローリーに到着。ホームでチャイを飲んだ後、トイレで鏡をみると顔が真っ黒に汚れていた。
 写真は明け方に見たインダス川(多分)。

暇つぶし地獄

–パキスタン、ラホール

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 そろそろエンヤ婆あたりに遭遇しそうだ。
 パキスタンにやって来た。やって来たはいいが、前情報、ガイドブック、マップなど必要と思われる諸々を全く持っていないことに気がつく(いや、知ってたけど収集を怠った)。唯一のパキスタン情報、それは僕のノートに走り書きされた「ラホール、リーガルインターネットイン」というホテルの名前とその住所。のみ。しかもラホールは予想を遥かに上回る勢いの大きな街で、その宿にたどり着くまでにも右往左往を余儀なくされる。
 それにしても、この先進むことになるであろう街の名前も、知ってるのはラホール、フンザ、イスラマバードくらい。ちなみにフンザにもイスラマバードにも行く予定はナシ!つまりは情報ゼロ!
 こんな怠けた様な意気で臨んだパキスタン。あれ…英語が通じない…
 ますます包囲網が狭められていく様が脳裏をよぎりつつ、なんとか列車のチケットを予約するためにラホール駅へ。結果、チケット取るのに半日かかり、列車の発車までまた半日。ラホールの名所がナニかすらまったく分からないため、延々駅のホームに座り続けました。退屈に殺されるかと思いました。デリーの古本屋で買った「吾輩は猫である」を2回通して読めるくらいの暇加減でした。
 斯くの如く、ラホールでは全く観光も何もせずに、本日その名を知ったばかりのローリーという街への列車に乗り込む。何もしてないのにやたら疲れた。

さよならインド

–インド、アムリトサル

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 ようやくパキスタン、イラン両国のビザを手にした僕はパキスタン国境近くの町、アムリトサルへ向かった。
 シーク教の総本山である黄金寺院が有名なこの町では、道行く人の多くがシーク教徒の証であるターバンを頭に巻きつけている。黄金寺院をひととおり見て回り、流れてくるハルモニウムにのった聖歌にしばらく耳を傾けながら「不死の池」を足でぱちゃぱちゃやっていると、少年に不審な目で見られた。やめた。
 少しは北にきたのだから、涼しくなるだろうという僕の目論見をぶち壊すかのように、照りつける日差しは強い。というか痛い。黄金寺院、ジャリアンワーラー庭園、ラダック寺院などを見て周り、早々に翌日パキスタンへ移動することにした。
 ひと月ほどいたインド。地方によって様々な文化の違いを感じさせられた国だった。とはいえ僕の行ったところは極わずかで、インドを知ったとはとても言えないだろうけど。行かなかった南インドにも、いつか行ってみたいと思いながら、僕は国境を越えた。

デリー再び

–インド、デリー

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 レーを去るのはいいが、もう一度あの峠を越えるのは気が進まなかったので一気に飛行機でデリーへ戻ることにした。所要時間わずか一時間で、僕は再びデリーに降り立った。
 バラナシからここまで同行してくれていた白ポンの帰国日がやってきたため、見送る。一人になるとまったくやることもなく、ビザ待ちで暇をもてあました僕はメイン・バザールをあてどなく行き来した。
 インドを移動中によく耳にしたインディアン・ポップスを求めてCD屋へ。MP3で127曲入って100Rs!安い。店でチャイを飲んでいたおっちゃんがそれを見ながら、「音楽は食事と同じだ」と言った。いい事言うじゃないか。

ティクセ・ゴンパ

–インド、レー

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 どうしてもティクセ・ゴンパだけは見ておきたかったのでバスで向かう。ゴンパというのはチベット仏教における僧院のことで、数多くのラマ僧が修行を行う場所だ。ティクセ・ゴンパはもともと砦のあった場所に建てられたものらしく、岩山に寄り添うように立ち並ぶ建物群が壮大だ。
 感動してしばらくの間、下から見上げる(息切れしてしんどかったのもある)
 ゴンパからは時折風の音のような、角笛のような音が響いてくる。祈りの一環なのか、何かの合図なのかは杳として知れない。そして鉦の音が。これは後で、階段の途中にある大きなマニ車を回すときに発生する音なのだということがわかった。
 屋上まで登りきると、360度のパノラマだ。やはり月か火星にいるかのようだ。まったくこんなところにも人は住むのだ。完全に非日常的でしばらく茫然と立ち尽くす。
 空が近い───。

王宮に登る

–インド、レー

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 ようやく調子が戻ってきたのはいいけど、このままでは何もしないままレーを後にしてしまいそうだ。とりあえず王宮くらいは見ておこうか、と思い出かけることに。
 レーの旧王宮は、町のはずれに市街地を見下ろすようにそびえている。大きさはぜんぜん違うけどチベットのポタラ宮のモデルでもあるらしく、現在は博物館として開放されているようだ。しかし中はほとんど廃墟の様相だということを聞いて、入場料200Rsを払うのもばかばかしかったのでとりあえず入り口まで行くことにした。
 10メートル歩くたびに息切れして座り込みながらも何とかきつい坂道を向かう。おじいちゃんとかこういう辛さなのかな。でも高いところから見下ろすレーの町並みやその向こうに広がる月面のような風景、抜けるような青い空はとても素晴らしかった。レーに来てよかった、と初めて思った。

養生ラム

–インド、レー

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 退院しても相変わらず風邪によく似た症状が続き、何もする気が起きないため2日間ほどホテルでじっとしていた。さすが標高3500mのことだけはあり、5月も終わりだというのに夜は震えるほどの寒さ。しかし日中の日向では強烈な太陽光線が、ウインドブレーカーを着込んだ体をすぐに汗だくにしてしまう。かといって脱いでしまうと、少し日が翳っただけで一気に冷え込んでくる。

 ホテルにホットシャワーがついているのが救いだ。しかし使用可能な時間は限られていて、午前午後とも6~9時の間だけだという。仕方がないのでお湯が出るのを確認した後速攻でシャワーを浴び、即あったかくしてラムを一杯飲んで寝るという方法で暖をとる。一日経つごとに順調に回復してくるのがわかった。

 ホテルのお兄ちゃんはとても親切で(都度チップを渡すのは当然で、それを差し引いても)、ことある毎に僕のことを気にかけて話しかけてきてくれたり、ホットココアを淹れてくれたりする。ラムも彼のアイデアだ。体が弱っていると、こういう親切が心に染み入るように嬉しい。僕の持っていた折りたたみ式のポータブルスピーカーに興味深々だったので、日本に帰ったらお礼に送ることにしよう。