Book of Ti’ana 第5章─賢者

第五章 | 賢者

議事堂の前庭は、ギルドマンたちでひしめいていた。元老、グランドマスターとその助手たち、そしてそれ以外の、より下位の評議員たち…皆がこれから始まる大議事堂での討論を今か今かと待っているのだ。
過去にないような重要な議題の討論を前に、場は喧騒に包まれていた。立ち並ぶ絢爛な大理石の柱と柱のあいだではマントを着込んだ議員たちが、そこかしこでグループを作り、今回の提議に関する意見を交わしあっている。その中央の、比較的大きな集団の中にアトラスはいた。今回の提議は彼らによるものなのだ。
アトラスが評議会に戻って十五年が経つ。今やアトラスは、議会における進歩派の非公式なリーダーとして認められ、元老の政策決定においてもたびたび助言を求められるようになっていた。だが今日、アトラスは落ち着かない気分だった。
「なにか知らせはあったか?」
化学ギルドの友人、オーレンがやってきて輪に加わると、尋ねた。
「まだなにも」
「彼女なら大丈夫さ」
アトラスの肩を抱えながら、別な友人…こちらは立法ギルドのペンジュールが答えた。
「そうだといいが」
とはいうものの、アトラスは明らかにそわそわしている。
「それで、今日はどうする?」
派閥の中核を担う十数人のマスターたちの顔を眺めて、オーレンが尋ねた。
「だれかいいアイデアはないか?」
皆は思わず笑った。オーレンは化学者だけあって、いつもはっきりした答えを欲しがる。
「どちらにせよ、もう時間はないぞ」
この中では一番年長のハミールはメッセンジャーギルドのグランドマスターだ。白く長いあごひげを引っ張りながら続けた。「我らが友人の弁舌に期待するとしよう」
オーレンはアトラスを見つめ、ニヤリと笑った。
「じゃ、俺たちの負けだな。今日のマスター・アトラスは一つの事以外考えられそうにないご様子だ」
アトラスは微笑んだ。
「心配するなよ、オーレン。うまくやるさ。話し始めれば気も紛れる」
それを聞いて皆は頷いた。この提議は皆にとって重要なことではあるが、ティアナの無事はそれ以上に大事だった。
実際この計画はティアナなくして成立しなかった。彼らをシティ下層に連れていき、みなの状況を監督していたのも彼女だったからだ。ティアナはこの計画の中心であり、発案者だった。
「あいつらはヴェオヴィスが対抗弁論に立つと言っているが」
ペンジュールは離れた場所に集まる、ヴェオヴィスを中心とした派閥集団を眺めながら言った。
「それじゃ今日の討論は長引きそうだな」
司書ギルドのテキスがめんどくさそうに答える。
「まちがいなく面倒だ」
ペンジュールが付け加え、全員が笑った。
「かもね。でも彼の意見はわかっている。彼はこの小さな変化がより大きな変化のはじまりだと恐れている。そしてそれは彼だけじゃない。僕らの任務はその恐怖をしずめることだ…ヴェオヴィスではなく、その周りの人たちのだ。彼らは僕らが話す言葉の、真の意味がきっとわかるはずだ。それで十分。そしてそれこそが勝利への道なんだ」
それを聞いて皆が頷く。
「でも、もし負けたら?」オーレンが尋ねた。
アトラスは微笑んで答えた。
「そしたらシティ下層を救う別な方法を考えるさ。ティアナはいつも言っていた。『リーコーを叱る方法は一つだけじゃない』ってね」

静まり返った議場で、ヴェオヴィスは自分の席から立ち上がって振り返ると、集まった議員たちに向かって話し始めた。
「皆様がた。ご承知の通り、私の役目はこの軽率な計画を受け入れないように促すことです。多くを申し上げる必要はないでしょう…シティを統治する現在のシステムは五千年以上にわたって機能しており、そしてそれが今現在も十分うまく機能していると感じている方もいらっしゃいましょう」
ヴェオヴィスはそこで一旦言葉を切り、アトラスを一瞥した。
「ただそこには問題も存在します。それはドニを導くべきは何者なのかという問いです。今回の提議されている措置は一見無害に思われるかもしれません。しかし、仮にいったん権力を…それが一定の制限が課されたものだとしても…味わった一般市民はどうなるでしょう?より大きな力を求め、このような制限は不当だと言い出すのではないでしょうか?私たちは権力と対になる責任、それに費やされる大いなる対価を知っています。権力はたった一晩で得ることができますが、責任は違います。学ばなければなりません。長い年月が必要なのです。もし彼らがどれだけ良い精神の持ち主だったとしても、その責任を負う自覚のない一般市民に重要な議論ができるでしょうか?私達はもちろんできます。しかし、いざその時、彼らに我々と同じほどの知恵と知識を要求するのは不公平ではないでしょうか?私はそう考えます」
ヴェオヴィスは微笑んで続けた。
「突き詰めると、それが私が反対する理由です。なんとなれば、現在私達よりも幸せな人々に不幸をもたらすのです。どうして彼らにこんな面倒を押し付けるのでしょうか?こんな重荷を背負わせる必要がどこに?ないのです。みなさん。重荷を背負うのは私達でいい。採決では私につづいて「否」と声をあげてください。それで終わりです。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
ヴェオヴィスが着席すると一斉に賛意のこもった声が湧き上がった。
リラ卿が合図をし、アトラスが起立する。
「皆様がた…ご存知かもしれませんが私の妻、ティアナはいまちょっと大変ですので、手短にお話させていただきます」
笑いが起こった。ヴェオヴィスでさえ、不承不承ではあるが頷いた。
「しかし、一言二言、私の仲間たちの言葉をお伝えします。ヴェオヴィス卿がどれほど忙しいかは理解していますが、私の提案をしっかり読んでもらえれば、彼が先程仰ったような、我々の権力の放棄とはほど遠い話であることがわかっていただけるでしょう。それだけではなく、私はヴェオヴィス卿に深く同意しているのです。権力とはただ与えられるものではない。そして責任。それは厳粛なものであり、その重荷はしかるべき教育を受けたものが負うべきです。それがドニのやり方です。それを変える気は私にはありません」
アトラスはそこで言葉を切り、円形をした階段状の議員席に座る顔をぐるっと見渡した。
「私の話は全ての人にとって利益となることであることを明言いたします。ですので皆様に今日の賛同をお願いすることはいたしません。私もヴェオヴィス卿と考えは同じです。あらゆる政策決定や予算討議は従来どおりこの議場にて行われるべきで、そのことで言い争うつもりはありません。私の提案する内容は与えることで、奪うものではないのです…ドニの一般市民がある程度、自身の人生をコントロールするための権利を持つことを許すことです。現在、彼らにはそれがありません」
アトラスは微笑んだ。
「首を振る人が何名かいらっしゃいますね。しかしそれが真実なのです。また何人かの方はそれを自身の目でご覧になったことがあるでしょう。ドニ…つまり私たちは貧困にあえいではいません。食べるものも家もあり、衛生設備や医薬品も必要なら手に入ります。しかし…ここが重要です…彼らはもっとより良くなれる。もっともっと」
アトラスは再び周囲を見渡し、並んだ顔をひとりひとり詳細に見つめた。
「皆さんの考えはわかります。なぜ?なぜ我々が彼らの向上に関心を払う必要がある?そこには二つの素晴らしい理由があります。ひとつは、私達が日々会話する相手のことを考えてください。怠け者や浪費家、なんの役にも立たない者のことではありません。良い人間、一生懸命に働く人々のことです。男性。女性。ここにいる私達はそんな人々のことを何十人も、何百人も知っていることでしょう。私達は日々彼らに会い、多くのことを彼らに頼っています。そして彼らも私達に頼っています。ふたつめ、これは正しいプライドとともによく言われることです。ドニは万の『時代』を統治している…しかし社会の良し悪しは、その版図の広さだけではなく、すべての市民の生活の質によっても判断されるべきです。わたしたちは富める民族です。寛大さをもつ余裕があります。私は、特に私たち自身に対して寛大であることこそ、私たちの道徳的義務であると主張したい。そしてこれこそが私がお願いしたいことです。皆様がた、ぜひ採決にて「是」と声をあげてください。ドニのために、そしていつの日か今日の我々自身を顧みて誇りを持てるように。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
アトラスが着席すると、リラ卿は議場の後方にいる執事へと合図を送った。ヴェオヴィスとアトラスの最終弁論が終わり、いよいよ採決のときだ。
八名の執事が所定の位置に移動する。採決は議員の挙手にて行われるため、その数を彼らが数えるのだ。準備が整ったことを確認し、リラ卿は他の元老たちに目をやると、再び口を開いた。
「この運動に賛同の者は挙手を」
手が挙がり、執事たちが素早く計数していく。
「それでは反対の者は挙手を」
再び執事たちが計数する。
「よろしい」
仕事を終えた執事たちはそれぞれ席の間を下り、リラ卿の前に整列した。リラ卿は各々の持つ計数器を受け取り、目の前に広げられた大きな台帳に記していく。最後の一人の計数を記入すると、すばやく二列の合計をそれぞれ算出し、顔を上げて横に並ぶ元老たちを見た。通常元老たちは投票しない。だが採決の結果が三票以内の僅差だった場合は、彼らの意見によって決めることができるというしきたりとなっていた。リラ卿は居並ぶギルドマンたちすべてを見渡して言った。
「皆のもの。本件は完全に票が二分される結果となった。賛同が百八十二、反対が百八十。したがってやむを得ず、我々も本件に対して意思を表す」
ヴェオヴィスはただちに立ち上がった。
「いけません、マイロード!いかなる理由であれ…」
その語尾は次第にしぼみ、ヴェオヴィスは黙って頭を垂れた。
リラ卿はヴェオヴィスをしばらく見つめたのち立ち上がり、会の終了を宣言した。
「評議会の決定はすでに告げられた、マスター・ヴェオヴィス。本件は保留とする」

ランプの薄明かりに照らされた部屋で、スァルニルは注意深く扉を閉めると、振り向いて部屋の隅の椅子でぼんやりとしているヴェオヴィスに目をやった。
評議会の後はずいぶんと興奮していたものの、いくらかは落ち着いてきた。だがヴェオヴィスの中の陰鬱とした激しさはまだ残っているようだ。良くない兆しだ。棚から酒瓶を取り上げると、掲げて聞いてみた。
「飲むか?」
ヴェオヴィスはちょっと目を上げたが、首を振った。
スァルニルは肩をすくめて自分の杯になみなみと注ぎ、それをがぶ飲みすると再びヴェオヴィスの前に立った。
「なにかできることがあるはずだ」
ヴェオヴィスは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。スァルニルはそれを聞いて微笑んだ。
「手があるかもしれん」
ヴェオヴィスは興味を引かれて目を見開いた。
「続けてくれ」
スァルニルはヴェオヴィスの隣に座った。
「賢者と呼ばれる男がいてな。パンフレットを発行してる」
「パンフレット!」
ヴェオヴィスは吐き捨てた。
「おい、スァルニル。真面目に考えてくれ」
「真面目さ。そいつはシティ下層では有名人らしい。相当な数の人々がそれを読み、そいつの言葉に耳を傾けているそうだ。ティアナたち改革論者よりも影響力は大きい」
「そいつの主張はどんな内容なんだ?」
「説明するには長すぎるな。一つ二つ、自分で読んでみるといい。多分君は気に入ると思う」
ヴェオヴィスは疑わしそうな目で見つめ返し、スァルニルから杯を奪い取って一口飲んだ。
「その賢者とやらの名前はなんというんだ」
「アゲーリスだ」
ヴェオヴィスは大声で笑い出した。
「アゲーリス!『詐欺師』のアゲーリスか!?」
「あの容疑は立証されてないぞ」
ヴェオヴィスは手をひらひらさせて言った。
「スァルニル、ギルドは単なる噂で奴らを除名になどしない。それに俺は奴がギルドのマントを剥ぎ取られたその場に居たんだ。容疑はほぼ固いと聞いた」
「もう五十年も前のことだろう」
「五百年前だろうが同じことさ。奴は信用ならん」
「勘違いをしているようだが、俺は奴が信用できると言ってるんじゃない。君の役に立つと言っているんだ」
「役に立つだと?どう役に立つ?パンフレットを書いてもらうのか?馬鹿馬鹿しい」
スァルニルはうつむいた。スァルニルに対して、ヴェオヴィスがこれほど嫌味を言うのははじめてのことだ。それほどに今日の敗北は明らかにヴェオヴィスを打ちのめしていた。おそらく、それを行った「彼」に対しても。
「『賢者』がよそ者をよく思っていないのは確かだ。奴の主張は『血の交配はタブーである』だからな」
「奴がそう言ってるのか?」
「それ以上のこともな。やはり君は一度会ってみるべきだ」
「ハッ、あり得ん」
「じゃあこのままここでくよくよ悩んでいるだけか?」
「違う!」 ヴェオヴィスは立ち上がり、部屋を横切ると外套を掴んだ。
「俺はクヴィーアに帰って考える。どうやら君は俺の仲間に加わりたくないようだからな」
「ヴェオヴィス…」
「明日だ。明日はまだ気分がマシになっているだろう」
スァルニルはヴェオヴィスが出ていくのを見送ると、ため息をついた。確かに今の彼は機嫌が悪く、どんなアドバイスも聞きそうにない。明日か明後日まで待ったほうがよさそうだ。
スァルニルは苦笑いして、書き置きを残すために彼の机に向かうと紙にペンを走らせた。

アナは大きな枕を背にしてベッドに身をおこし、穏やかな微笑みを浮かべて赤ん坊をあやしていた。二十時間にも及ぶ大変な戦いの疲労でその顔色はいつになく青い。だが歓喜に満ちていた。
向かいの椅子にはタセラが手を組んで座り、笑顔で孫をじっと見つめている。アトラスが生まれたときに比べるととっても小さいわ…でもしっかりした子。健康なお子さんです、と産婆も言っていた。
彼らはコアにいた。季節は春。朝日の差し込む静かな部屋に、風に乗った花の香と鳥の声が届いている。
「アトラスはまだなの?」
タセラの問いに、アナは微笑んだ。
「もうすぐ来るはずよ。さっさと帰ってくるわけには行かないわ、今日の評議会の主役なんだから」
「それにしたって…」
そういいかけたタセラの顔が明るくなった。
「まあお帰り、アトラス!遅かったじゃない!」
アトラスは母に挨拶をしてその横を通り過ぎると、ベッドのアナの側へと歩み寄った。その顔は驚きに満ちていた。
「男の子よ」
アトラスはベッドの側に膝を付き、顔の高さを眠る赤ん坊に揃えると、目をいっぱいに見開いた。僕の息子。
「なんて…」
「あなた似ね」
アナは柔らかく笑った。「かわいいでしょ?」
アトラスは頷いて、アナを見上げた。
「ありがとう」
静かにそう言って、赤ん坊を起こさないよう注意深くアナにキスをした。
そして再びじっくりと赤ん坊を見つめた。プロポーズ前夜に眠るアナを見つめたときのように…今その二つの瞬間が、鎖のように結びつく。
「やあ、ゲーン坊や」
赤ん坊の口元に、最初の微笑みが浮かんだような気がした。
「世界へようこそ」

マスター・オーレンが現れたのは、祝宴も終わりの頃になってからだった。遅れると聞いていたが、待っても待っても現れないのでもう来ないかもしれないと考え始めた頃だった。オーレンの顔は暗く、ふさぎ込んでいた。
出迎えたアトラスはその様子を見て尋ねた。
「どうしたんだい、オーレン」
「我々に呼び出しだ…すべてのギルドマンは皆すぐドニに戻って報告すること、という通達が来た。どうやら若いメンテナー二人が失踪したらしい。我々はそれらの『時代』へ捜索に行かなければならない」
アトラスは目を瞬いた。
「そいつは…」
「ああ、厄介な仕事だ。それで、維持ギルドは他の全ギルドに応援を要請した。状況は…正直よくないな。二人はなにか重要な調査を行っていたらしい。それが何かは知らないけど、グランドマスター・ジェダーリスは二人が誘拐されたか、殺害された可能性が高いと考えているみたいだ」
それは衝撃的なニュースだった。
「なんてことだ…ともあれ入りたまえ。家族を紹介させてほしい。その間に、みんなを集めてこの知らせを伝えておく。その後、出発しよう」
オーレンは頷き、アトラスの腕をそっと掴んで謝った。
「幸せな日にこんな不吉なニュースを伝えて済まない…男の子だそうだね?」
アトラスの顔に再び笑顔が戻った。
「顔を見てやってくれ、オーレン。名前はゲーンというんだ。将来は偉大なギルドマンになるぞ」

一時間後、アトラスはマスター・ジェダーリスの前に立っていた。
「ああ、マスター・アトラス。おめでとうを言わせてくれ。男の子だ、そうだろう?いい、実にいいニュースだ!」
「ありがとうございます、グランドマスター」
アトラスは深くお辞儀をした。
「何が起きたかは聞いたか?」
「我々は『時代』へ捜索に出るのですね」
「そうだ。だがすべての時代じゃない、二人が過去五年の間に、個人的に調査を行っていた時代に限られる」
「それは…?」
「これは誰にも言うんじゃないぞ」
ジェダーリスはそう言うと、わずかに声を落として身を乗り出した。
「いくつかの『空白の書』がホールから持ち出され、行方がわからん。どうやら失踪した二人が、自分たちの調査のために持ち出したんじゃないかという嫌疑がかけられている」
それは由々しきニュースだった。アトラスはすぐに事態の難しさを理解した。
「彼らが何の調査を行っていたかは教えてもらえるのですか、マスター・ジェダーリス」
「いいや。だがおそらく、彼らは巡回に送られていた時代のうちの一つで何かを見つけたのだと考えられている。何か大変なものをだ。そこで持ち出した空白の書を使って、その確実な証拠を得ようとしたのではないか…とな」
「いくつの時代が含まれているのですか?」
「六十以上だ」
「マスターはこの件に、高い地位の者が関わっているとお考えなのでは?」
ジェダーリスは頷いた。
「だから我々はチーム単位で捜索にあたる。個々のギルドマンではなくな。これ以上仲間を失うリスクは冒したくない。アトラス、君は私のメンテナー・チームに加わってほしい」
「わかりました。どこへ向かえばよろしいでしょうか」
「クヴィーアだ」
「クヴィーア!」
ジェダーリスは片手を上げた。
「まあ待て。ラケリ卿が君に頼みたいとのことなんだ。彼は君を責めたりはしていない。よく考えたうえで、君が彼の家に伝わる本の調査チームを率いるなら、家の名にかけられた嫌疑を晴らしてくれるだろう、と仰ったんだ。わかっていると思うが、これは非常にデリケートな問題なんだ」
「それはわかりますが…」
「これは決定だ」
ジェダーリスは切り上げるようにそう言った。
アトラスは彼を見上げ、礼をした。
「仰せのままに、マスター・ジェダーリス」

クヴィーア桟橋の階段で、アトラスはラケリ卿に出迎えられた。その背後には、ねじれた形をした巨大なクヴィーアの島影が全てを覆い隠している。今は早朝で、大洞窟内の光量はまだ薄暗い。だが湖の向こうに見えるドニは、焚き火の残り火のように輝いていた。
「よく来てくれた、アトラス。それと、おめでとう。息子が生まれたと聞いたよ」
アトラスは老人の手を取って微笑んだ。
「ありがとうございます、ラケリ卿。ゲーンと名付けました」
ラケリは再び微笑み、手を強く握り返した。
「良い名だ。曽祖父の名を受け継いだのだね。彼は偉大な男だった…もしこのようなことがなければ会いたいところだったが…来てくれ。これは難しい仕事だが、やり遂げねば」
アトラスは頷き、ラケリについて建物の中へ入った。後ろには六名の若いメンテナー、一人のギルドマスターが付き従っている。
建物の中は静かだった。コアでの祝宴のあとでは余計に、陰鬱で冷たい場所に思える。
本の間につづく巨大な扉は鍵が欠けられていた。ラケリは大きな鍵束を取り出すと鍵を開け、右手の扉を押して開いた。
アトラスは部屋に足を踏み入れるのをすこしためらい、尋ねた。
「我々と同行はされないのですか、マイロード?」
「そのほうが良いであろう、マスター・アトラス。今回の件は難しい。通常の巡回は、昔から行ってきたが…今回のこれは、すべてに良くない光をあてる。そう思わないかね?」
「きっと説明があると思います、マイロード」
アトラスは慰めるように微笑んだ。
「できる限り効率的に、短時間で作業を終えられるようにします。またここを去る前に、報告書の複写をお渡しいたします」
ラケリは微笑んだ
「ありがとう、アトラス。感謝する」

クヴィーアの本の間は、荘厳さを感じさせる部屋だった。アトラスは以前に何度も見たことがあるにもかかわらず、一度足を踏み入れると、再び年月の重みをその身に感じさせられた。部屋の三面は天井までつづく本棚に覆われている。数え切れないほどの注釈本の背表紙には、ナンバリングと日付が金色のドニ文字で書かれている。左手の面だけ、本棚の一部が開いており、二つの大きな窓がはめ込まれてる。様々な色の半透明の石を組み合わせたその窓も天井まで続く大きさだ。その窓を通して湖と、大洞窟の壁が遥かに見通せる。
本の間は、その全体がクヴィーアを構成するねじれた巨岩から拍車のように突き出ており、真下の水面までには十スパンもの空間があった。
若いギルドマンは部屋に入ること自体おびえているようだ。ラケリ家の所蔵する本は六冊。いずれも太古の時代だ。大きく重いそれらの本は、部屋の最奥にある大理石の台座に傾いた形で設置されていた。それぞれの時代に合った色合いの革で装丁されており、台座に頑丈な鎖でつながっている。鎖は一見すると金のように見えるが実際にはドニで最も硬い素材、ナラ製だ。
アトラスは台座に近寄り、それぞれの本をじっと眺めた。六冊のうち五冊は閉じられているが、一冊だけ開いた状態の本がある。ニドゥ・ジェマートの書だ。説明板が早朝の光をうけてぼんやりと輝いている。
ヴェオヴィスとまだ友人だったころ、ニドゥ・ジェマートへは以前何度も訪れたことがある。
今はすっかり疎遠になってしまったことを、アトラスは悲しく思った。この十五年で二人の間に開いてしまった溝をつなぐ架け橋になるなにかがあればいいのだが…。
アトラスは振り向いてギルドマスターに声をかけた。
「マスター・クラ、ギルドマンを二人、入り口で見張りに立たせてくれ。ニドゥ・ジェマートへ出発する」
ギルドマスターが頷き、部下に指示をはじめた時、突然ドアが激しく開き、嵐のようにヴェオヴィスが入ってきた。
「やはりそうか!」
ヴェオヴィスは叫び、アトラスを指差した。
「この任務にお前が志願するだろうと思っていたぞ!」
とりなそうと近寄ったマスター・クラをヴェオヴィスは睨みつけた。
「誰だか知らんが黙れ!俺はギルドマスター・アトラスと話しているんだ!」
アトラスはヴェオヴィスが大股で近づいてくるのを、無表情を保って待った。だが知らず、緊張のうちに右手は強く握りしめられていた。
「なんだ?」
ヴェオヴィスはアトラスの目の前、腕の長さほどの距離で立ち止まった。
「何か言うことはないのか?」
アトラスは首を振った。不当に非難された時、一番いいのは黙っていることだということをアトラスは知っていた。
「余計なことに首を突っ込まずにはいられないのか?わかったらさっさと…」
「ヴェオヴィス!」
ヴェオヴィスは背筋を伸ばし、振り向いた。入り口の扉にラケリ卿が立っていた。
「父上?」
「部屋を出るんだ」
ラケリの声は冷徹な命令を下すときの声だった。アトラスは、彼がヴェオヴィスに対してその口調を用いるのをはじめて目にした。
ヴェオヴィスは礼をし、アトラスを睨むと、部屋を出ていった。入れ替わるようにラケリが近づいてくる。
「息子を許してくれ、アトラス。あいつは事態の深刻さを理解しておらんのだ。今は代わりに私が謝罪しよう。あいつにも後で謝罪するよう言って聞かせておく」
「ありがとうございます、ラケリ卿。しかしそれは必要ありません。私と息子さんの関係はずいぶん悪くなってしまいました。あなたのその言葉だけで十分です」
ラケリは微笑んで静かに頷いた。
「君は賢く優しいな、アトラス。息子が君という親友を失ったことについて、私は後悔しているのだ。ああ、君に責任はない。息子はひねくれ者でね…私の父によく似ている」
ぎこちない静寂が流れ、ラケリは再び頷いた。
「では私はもう行く。アトラス、為すべきことを為したまえ。私たちには隠すことなどなにもない」
アトラスは深く頭を下げた。
「仰せのままに」

二名の失踪者についてなんの手がかりもないまま一月が過ぎた。六十の時代においてゆるやかに進行した捜索作業も終了となった。アトラスたちメンテナー・チームがクヴィーアを後にして二日後、クヴィーアの頂上に開けたベランダで、ヴェオヴィスはラケリ卿に提出された報告書の写しに目を通していた。
最終ページの結論を読み終えたヴェオヴィスは、サイドボードに報告書を置いて椅子に深く腰掛けると、考え込むように遠くを見つめた。
向かいに座るスァルニルはそんな様子をじっと見ていたが、しばらくして尋ねた。
「それで?われらが友人、アトラスはなんと?」
ヴェオヴィスはしばらく黙っていたが、スァルニルに向き直って言った。
「非常にきっちりした仕事内容だ。それに公平でもあるし、克明だ。俺は彼を誤解していたかもしれん」
「そう思うのか」
スァルニルは笑った。
「個人的には、彼は君を嫌悪していると思ったがね」
「かもな。だがこの報告書にはそんな気配はない」
「報告書ではそうかもしれんが…」
ヴェオヴィスは目を細めた。
「何が言いたい」
「皆が目にするものに書いてあることが本心とは限らんさ。元老に提出するものとは別な内容のものを寄越した可能性だってある」
「父がそんなことを知ったら、俺にも言うはずだ」
「それがリラ卿にだけ、だったら?」
ヴェオヴィスは俯いたが、首を振った。
「ばかな」
だがその言葉は確信に欠けていた。
「やつは何を見つけたって?」
「見つけた?何も見つかるはずなど無い。一体何を見つけるっていうんだ?」
「いや、言葉の通りさ。なにか見つけたと言ったかもしれないだろう?」
「消えたメンテナーとかか?」
スァルニルは皮肉めいた笑いを返した。
「やつらは簡単に騙されただろうさ、なにせまだギルドマン見習いだからな」
その考えにヴェオヴィスは明らかに心を乱されたが、再び首を振った。
「アトラスは俺を嫌っていても、いかさまはしない。ましてや陰口をたたいたりする男じゃない」
「本当のところなんて誰にわかる?君はやつがよそ者と結婚するのに反対し、ひどく傷つけた。簡単に忘れることなどできない類の行為だ。機会があれば復讐しようと考えるには十分な動機じゃないか?」
スァルニルの声は陰謀めいてきた。
「そうじゃないかもしれん。だが確かめる方法ならある」
「確かめる?どうやって」
「そういうのが得意な友人がいる。そいつは色々な話を召使いやそういった者から聞くことが多いんだが…なにか裏で起きているようなことは、大抵のことを知っている」
「それは誰だ?」
スァルニルは椅子に座り直して微笑んだ。
「君は名前を知ってるよ」
「アゲーリスか!」
ヴェオヴィスは軽蔑したように笑うと、首を振った。
「やつの言葉に耳を貸せというのか?」
「君は彼が何を言っても信じないだろう。だがなんの損がある?聞いて、使えるものは使えばいいだけだろう」
「それでやつがそうする狙いはなんだ?」
スァルニルは驚いたように目を瞬いた。
「狙い?そんなものはないさ。彼は俺に借りがある。それに、君もきっと彼と会ったら楽しめると思うぜ。君も彼も強く、聡明な男だ。君らの討論が見てみたい」
ヴェオヴィスはしばらくスァルニルを見つめて、不承不承肩をすくめた。
「わかったよ。会見をセッティングしてくれ…だが、この件は誰にも言うな。もし誰かに見られたら…」
スァルニルは微笑んで立ち上がり、ヴェオヴィスに小さくお辞儀をした。
「心配するな、ヴェオヴィス。完璧な場所を知ってる」

ドニの夜には地上のように月や星の明かりは存在せず、ただただ暗闇があるばかりだ。湖が暗くなるのは発光する微生物の活動が低調になるためで、彼らははるかな昔から三十時間周期の正確な体内時計をもっており、それは地球の反対側にいても変わることはないのだった。
カーリス邸の屋上にある庭園でアナはひとり手すりにもたれ、シティ上層街を見つめていた。まだ宵のうちは明るく輝きを放ち、大洞窟の壁面にはりついた大きな真珠貝の殻のよう見えていたそこも、今は街路に点々と並ぶランプの明かりだけで、まるで巨人の食料庫の隅に張られたぼろぼろの蜘蛛の巣のようだった。
湾外の湖にはいくつもの光が瞬いており、そこに島があることを示していた。あそこには人がいるんだわ。そのうちのどれか一つにアトラスがいる。もう立ち去ったとしても、いずれにせよドニにはいる。
アナはため息をついた。彼が恋しい。階下の子供部屋から聞こえてきた赤ん坊の泣き声を聞いてアナは振り向いたが、しばらく目を閉じて、すべて投げ出したくなる誘惑と戦った。そして気を持ち直すと、木製のハッチをくぐって階下へと戻った。
泣き声がさらに大きく聞こえる。繰り返し続く高い泣き声は、まるで終わりがないように思えた。仮に僅かな時間止むことがあったとしても、その後より一層激しくなるのだった。
部屋に戻ると、看護師のむこう側、隅の机で何かを書き付けていた老人…医療ギルドのマスター・ジュラが顔を上げ、問題の原因は子供ではなくアナだといわんばかりに顔をしかめた。
彼を無視してゆりかごに近寄ると、横たわったゲーンは顔を真赤にして泣き声を上げ、手足をばたつかせていた。アナは悲しくなり思わず抱き上げて抱きしめたい思いにかられたが、たとえそうしても何も解決しないだろう。アナが何をしても泣き声は止むことはない。
しばらくして、医者が口を開いた。その口調や態度は冷淡そのものだった。
「まあ、原因は単純なものだ。胃だな。十分な栄養が行ってないせいで痛みが起きているのだ」
「痛みが?」
医者は頷き、再びノートに目を戻した。
「ドニの子であれば問題なくなにか処方できるのだがね…」
「すみません」
アナはその言葉に割り込んだ。
「それはどういう意味ですか?」
医者、マスター・ジュラは驚いたように目を瞬いた。そして苛ついたように続けた。
「わかりきったことだろう?この子は普通じゃない。ドニ人でも地上人でもない奇妙な混合種まざりものだ。全く、よく生きているものだと思うよ!」
アナはその言葉にショックを受けて頭が真っ白になった。この子のことを奇妙な実験動物のように言うなんて!泣き声を上げる息子を見下ろして、アナはふたたび老いた医者に尋ねた。
「検査もしてないのになぜわかるのですか?マスター・ジュラ」
老人は鼻で笑って言った。
「検査するまでもない。言ったろう、わかりきったことだ。ドニと地上の混血など許されるものじゃない。全くの本心から言って、この子は死んだほうがマシだね」
「出てって」
再びノートに目を戻していたジュラはその言葉に顔を上げると、まず看護師の方を見て、それからアナが自分を見ていることに気づいた。
「ええ、あんたよ爺さん。聞こえたでしょ?出てって。さもないと叩き出すわよ」
「何故だね、私は…」
「出ていけ!私の息子は死んだほうがマシですって?よくも…よくもそんなことが言えたわね、この恥知らず!」
ジュラは毛を逆立てると、ノートを閉じて鞄にしまい立ち上がった。
「私だって願い下げだ、こんな場所」
「あらそう」
アナはこの無礼な男を殴りつけたい気持ちを抑えて、看護師の方を振り返った。
「あんたもよ。荷物をまとめて出て行きなさい。これ以上必要ないわ」

港を見下ろすジ・テーリ地区のとある家、その静まり返った一階の部屋の扉を閉めたヴェオヴィスはあたりを見回した。古臭いがそれなりの部屋で、一方の壁に偏して大きな椅子が三つが置かれている。反対側の壁には大きな木の戸棚が、そして残る二面の壁にはどちらも絵が飾られていた。どちらも女性の人物画だ。いずれも厳格で上品さが感じられ、まとっているのも暗く質素な、四千年以上の歴史をもつドニ淑女の服装だ。
ヴェオヴィスは首を振って振り向いた。午後の四ツ鐘の音が聞こえてきた。静かで、平和な雰囲気だ。
アゲーリスは現れるだろうか。
もし現れたとしたら、過去の不正についてなんと言うだろう。
あの時、アゲーリスが排除された日の、やつの怒り様を今でも思い出せる。グランドマスターを睨みつけ、ギルドマントを投げ捨ててホールを飛び出していく様を、鮮やかに。
当時のヴェオヴィスは学生であり、マスターどころかギルドマンですらなかった。もう五十年も昔の出来事だ。
背後でドアがきしんで開く音が聞こえた。振り向くと、そこにいたのはスァルニルだった。
「彼は来たのか?」
スァルニルは頷くと一歩下がり、その後ろからアゲーリスが現れた。
背が高く、広い肩幅。しかし腹には肉がついている。禿げかかった白い髪は頭の天辺から後ろへとなでつけられ、時代遅れなぞろ長い服をまとっていた。シンプルな黒のチュニック、だぶついたズボンも黒。
しかしその眼には注意を引かれた。
無礼と言ってもいいくらい熱心に、ヴェオヴィスを見つめている。
「マイロード」
アゲーリスの挨拶には、わずかに冷笑が含まれているように感じられた。
ヴェオヴィスも同じように返した。
「賢者どの」
アゲーリスは微笑んだ。
「私は間違っていなかったようです」
「何がだ」
「あなたの中には火が燃えていると申し上げました。それは正しかった」
ヴェオヴィスはあざけるように笑った。
「他の者の口からそれを聞いたなら嬉しかったろうな」
「私はそうではないと?」
「噂以外にはお前のことをよく知らんからな」
「わたしの文章をお読みになったのでは?」
「まったく読んでない」
「ではよくお越しくださいました」
「謙虚だな」
「私が必要ですか?」
ヴェオヴィスは笑った。
「お前は鋭い、アゲーリス。俺が言うのはそれだけだ」
「鋭さは自分自身をも傷つけますよ、まちがいなく。何故あなたはここに?」
「正直、自分でもわからん。お前が俺の役に立つと説得されてな」
「あなたの役に?」
アゲーリスは笑いだし、窓の側へ近づくと外を眺めた。
「あなたはドニの支配階級ではありませんか。どうして私にお手伝いできることがありましょう。ただの一般市民ですよ」
アゲーリスの目にはからかうような光があった。それがむしろヴェオヴィスの興味を引いた。
「俺の知ったことか」
「いいえ」
アゲーリスは振り向いて微笑んだ。
「おそらく可能です」
「言ってみろ」
「私は耳が大きいのです」
「スァルニルも言っていたな。だがそこには役に立つ情報があるのか?」
アゲーリスは肩をすくめた。
「それはどうでしょう」
「なにかあるのか?俺の役に立ちそうな話が」
「もしくは、あなたの敵にとっての弱みが、ですかな」
「どっちでもいい」
賢者は微笑んだ。
「我々は重要な一点を共有しております、ヴェオヴィス卿。ドニを愛し、ドニの血の清らかさを信じていることです」
「どういう意味だ」
「あなたのかつての友人、アトラスとその間違った妻のことですよ」
ヴェオヴィスは目を細めた。
「彼らがどうした」
「昨夜のことです。あのよそ者の女は医者のマスター・ジュラとその看護師を家から叩き出したそうです」
ヴェオヴィスは再びスァルニルの方を見た。それが本当ならば、たしかにニュースだ。
「なぜそれを知っている」
アゲーリスはニヤリと笑った。
「マスター・ジュラが言っているようですな。時間と手間を無駄にしないためには、『半人間』を平和的にどこかへやってしまうことだ、とね」
「なんだと。マスター・アトラスはそれについてなんと言っている」
「彼になにが言えましょう?彼は遠くにいます。まあ戻ってきたらすぐに知るでしょうがね」
「恥ずべきことだ」
「ええ、まさしく。このようなことは許されることではありません」
「俺はそれを防ぐためにできる限りのことをした」
「ええ、そうでしょうとも」
ヴェオヴィスは俯いた。
「お前は俺の望みがわかっているんだろう。だがお前の望みはなんだ?」
「あなたと友人になりたい」
アゲーリスの顔に皮肉めいたものを予期してヴェオヴィスは顔を上げた。だが意外にもその顔は真剣だった。
「私にはずっと対等な仲間というものがいませんでした。群衆に説教するのは簡単です…だがそれでは何も変わらない。私の人生は終わったのです。ギルドから放り出された日に」
「ギルドには正しい理由が…」
「そんなものはない!」
鋭い返事に、ヴェオヴィスは驚いた。
「私は冤罪を受けたのです。失くなった本などなかったし、あったとしてもそれを持ち去ったのは私ではない」
「と、お前は主張する」
ヴェオヴィスは静かに言った。
「ええ、私は主張します」
しばらく沈黙が流れ、ヴェオヴィスは肩をすくめた。
「一日か二日考えさせてくれ。もしその気になったら、また会う」
「お望み通りに」
ヴェオヴィスは頷き、笑った。
「彼女は医者を叩き出したと言ったな?」
「ええ、脅しつけてね」
「ふむ…」
ヴェオヴィスはなにか考え込みながらうなずき、ドアへ向かって歩きだした。
「なかなか面白かったぞ、賢者」
「こちらこそ、ヴェオヴィス卿」

あたりが次第に暗くなる頃、アゲーリスは上階へとつづく階段を昇った。この五十年間、彼はここに間借りしている。
上階の暗い部屋を慌ただしく歩き回る音が聞こえ、ランプの明かりが灯った。アゲーリスの助手、コーラムだ。窓から階段を登るアゲーリスに気づいたのだろう。
深く考え込んだ様子のアゲーリスはコーラムを一瞥すると、まっすぐ自分の机に向かい、腰をおろした。生まれつきしゃべることができないコーラムは、静かに主人の後ろへと付き従う。
この部屋は彼の神殿であり、努力の結晶だった。部屋の壁は入り口から奥の窓まで隙間なく本で埋め尽くされている。その本のいくつかは参考書だったり、評議会の議事録や決疑録だったりしたが、あとはすべて彼自身の日記だった。
五十年。ギルドを放逐された日からずっと、彼はここでやり続けてきた。計画を立て、少しずつ。再び暗闇から抜け出し世に名を知らしめる日を、下層のいち住人ではなく誰もが知る何者かになる日をめざして。
コーラムはそれをよく知っている。下層の路地裏で浮浪児をしていた子供の頃に彼の「養子」となってからずっと見てきたからだ。彼らは互いを唯一信頼し合う関係となり、またアゲーリスはコーラムを共鳴板のように用いた。アイデアや考えを復唱し、コーラムがアゲーリスと同じように理解するまで理論の洗練を繰り返した。
アゲーリスが引き出しから日記を取り出して広げ、書き込み始めるのをじっと眺めながら、今日は大切な日だったはずだ…とコーラムは思った。はっきりとした理由はわからないが、彼の主人はここ数日間、ちょっとした興奮状態だったからだ。ヴェオヴィス卿。有名人だということは彼も知っていたが、主人がなぜ彼と会うことを強く望んでいるその理由はわからなかったし、それに関してアゲーリスがなにか話したこともなかった。
「本だ」
アゲーリスはつぶやき、しばらくしてコーラムに目を向けた。
「本さえ手に入れば」
コーラムは主人を見つめ返した。本棚には多くの本が並んでいる。それらはほとんどがギルドの図書館から「解放した」ものだったが、コーラムは主人の言葉の意味をよくわかっていた。コーティ・ニア。空白の書…時代の接続を可能とするもの。
「わかっているとも」
アゲーリスは振り向くとコーラムに笑いかけた。
「お前に手伝えることはない。だが我らの絆は違うかもしれん。ようやく得られたのだ。内部協力者…私の助けを必要としている友人が。もし彼を説得して私の助けになるようにできたら、それは誰にも知られないだろうよ」
アゲーリスは再び書き付けに戻り、その肩越しにコーラムは目を凝らした。よく見ると、延々と誰かの署名を練習しているのだ。コーラムは目を細め、元気よくアゲーリスの肩を叩いた。それはヴェオヴィスの署名であることは明白だった。ほんの数日前、評議会議事録にて実物を目にしていたのだ。
コーラムはこれまで何年にも渡ってそれを目にしていたが、それでもアゲーリスの、この他人の署名を真似る特技は魔法のように思えた。アゲーリスはほんの一時間程度練習するだけで自分のものにしてしまうのだ。
アゲーリスは日記帳を押しやるとあくびをしながら伸びをした。そしてコーラムに向き直って言った。
「そういえば今日、かの貴族さまが現れるまでの間に思いついたことがひとつある。それはこうだ…入れない場所に入り込むにはどうするか?それはギルドの重役室だったり、そうだな、警備の厳重な牢屋でもいい。入り込んで、そして捕まることなく抜け出すには?最も容易いのは、もちろんそこに接続できる接続書を書くことだ。しかしだ。そこから出るためには当然、もう一つの接続書が必要になり、しかもそれはそこに残ったままになってしまう。ここまでは分かるか?」
コーラムは頷いた。
「そう、入るのは容易い。しかし出るのは難しい。特に、メンテナーどもに追跡されずに、というのは究極的に難しい。となると…」
アゲーリスは満足したような満面の笑顔を浮かべて続けた。
「となると当然、まず別の時代に接続した後、さらに別の時代へ接続することになる。それか、別々の接続書を二つ三つ持ち込むのも、事態を混乱させる役に立つだろう。だが毎回接続した直後の場所に二冊目と三冊目が残っているようでは駄目だ。全然駄目だ。少なくとも一時間ほど歩いた場所に本を隠す必要があるだろう。そうすれば追跡者は二冊目を見つけるために相当広い領域を捜索するはめになる。さらに三冊目や四冊目の接続所があれば?使うのは一度だけでいい、二度目はまた一時間ほど歩いた場所で接続を行えばいい。こうすれば誰も追跡することは不可能だ。少なくとも、時間は稼ぐことができる。ちょっとした準備、二時間ほどのハイキングをしておくだけで安全が確保できるのだ」
アゲーリスはしばらく目を輝かせていたが、やがてうなだれた。
「もちろん、意に沿う時代を完璧に書き上げる事のできる記述者が必要だし、内部に入り込める内通者が必要という前提があるのだが、な」

アトラスが実験室に入ると、アナはジェメデットの最新土壌サンプルを調べているところだった。アナに声をかける前に、そばのベンチにはゆりかごにおさまったゲーンの前で立ち止まり、微笑みかける。レンズから顔をあげたアナが笑いかける。
「もうちょっと待ってて」
アトラスは頷いた。
「手紙を受け取ったよ」
「誰から?」
「それなんだが、署名がないんだ。筆跡も見たことがないな」
アナは手紙を受け取ると目を通し、読み終えるとアトラスに返した。
「捨てましょう。何であれ関わらないほうがいいわ」
「どういうことだい?」
「なにか問題がある?」
アトラスは肩をすくめた。
「気になるのはこの『あなたにとっての利益になる』という部分と、全体的に秘密めいてる雰囲気だ。君はどう思う?」
アナはため息をついた。
「もし本当に心配なら、メンテナーに届け出たら。捜査してくれるでしょう。でも、関わらないで」
「わかった、処分してしまうよ」
アトラスは部屋を横切るとガスバーナーに点火して手紙を燃やし、つぶやいた。
「これでよし」
背後でむずがりはじめたゲーンを、アトラスはゆりかごから抱き上げた。
「お腹がすいたんだわ。もう終わらせるから」
「いや、君は続けてて。ミルクは僕がやるよ」
アナは微笑んだ。
「あまりあげすぎないでね、前は大変なことになったから」
「わかってる」
アトラスはそう言って、ちょっと考えて付け加えた。
「この後部屋に戻って、レポートを終わらせなきゃいけないんだ。一、二時間くらいだと思うけど、夕食は遅めにしてもらえるかな」
「いいわね。そろそろ数日休暇を取ってもいいんじゃない?ジェメデットで」
「マスター・エラフィルに業務を代わってもらえるか頼んでみるよ。彼ももうそろそろもっと責任のある業務につくべきタイミングだ」
「それじゃあ後で。でも忘れないで、ゲーンの空腹はなによりも最優先よ」

アトラスは自室へ直行するつもりだったが、途中で不意に好奇心がわきあがり、階段を降り門をくぐってジ・テーリ地区へと向かっていた。
関わるべきじゃない。そう自分に言い聞かせるものの、それとはうらはらに足は進んでいく。
見るべきものを見るだけだ。それだけだ。
通りはいつもどおりの様子で、立ち並ぶ家々の窓は暗く、扉は閉ざされている。アトラスは、湾とケラスのアーチを見下ろす家々を眺めた。今アトラスの立っている場所はケラスのアーチのてっぺんとほぼ同じ高さだ。通りを横切り、建物の壁が低い場所にさしかかると立ち止まって、しばらく湖を眺めた。
今夜は薄くもやが出ている。見下ろすと、いくつもの細い路地を荷馬車がランプを揺らめかせて移動している様子が見える。誰かが叫び、その後笑い出すのが遠くから聞こえてくる。
平和な夜だ。
アトラスは振り返り、かすかな流水音に耳をすませた。
通りを横切る形で流れるう細い暗渠を流れる澄んだ水は、巨大な貝柱状のシティ頂上部から流れ出している。かがみ込んで手を浸してみる。冷たい。
不意に通りの向こう側から足音が聞こえてきた。アトラスは周りを見回すと、手近な家の入り口の影になっている部分に身を潜めた。
石畳に響くコツコツという音がゆっくりと近づいてきて、止まった。アトラスはためらった。顔を覗かせると気づかれるかもしれない。その時左手から別の足音が近づいてきた。二つの足音がいったん止まり、再び一緒にゆっくり響き始めた。二人は低い声で挨拶を交わしているようだ。
アトラスはそっと覗いてみた。二人は家の門の前の灯りの下に立っている。一人はマントを羽織り、フードをしている。もう一人は太った男だ。禿げ上がった頭には何も被っていない。どこかで見覚えがあるような気がするが…どこでだったかアトラスには思い出せなかった。再び身を潜めて耳をすませる。
「何が望みだ?」
片方の男が尋ねる。その声にも聞き覚えがあった。
「お見せしたいものが。きっと興味をお持ちになりましょう」
低い、教養を感じさせるが妙にざらついた声が答える。
「一緒に行けというのか?お前と?」
アトラスはついにその声を思い出した。
ヴェオヴィス!
「私を信じていただけませんかな」
「たった一人で、夜中に、この妙な家に?」
ヴェオヴィスは馬鹿にしたように笑った。
「お前は俺を信用しているのか?」
「それはもう、一切の疑いなく」
しばらくの静寂の後、ついにヴェオヴィスはあきらめたように言い放った。
「まあいい、信用してやろう。だが気をつけろ、アゲーリス。俺は武装している」
アトラスはその名前にショックを受けた。アゲーリス!
若いギルドマンは誰でも知っている。彼ほどの悪名を背負う人物はいない。しかし彼がジ・ターリ地区のような高級住宅街で一体何を?そしてヴェオヴィスはなぜこんな男と会っているのだ?
アトラスは再び様子を伺った。太った男が鍵穴に鍵を差し込んで開け、ヴェオヴィスを屋内に導いているところだった。
「お前が先に入れ」
ヴェオヴィスはその手にダガーの柄を掴んでわずかに一歩下がった。
「そして灯りをつけろ。俺が入るのはそれからだ」
アゲーリスは笑顔で肩をすくめ、家に入っていった。しばらくして玄関に灯りが灯り、ヴェオヴィスはダガーの柄から手を離すと周りを注意深く見回してから入っていった。
それだけか?あの名もなき作家がヴェオヴィスに見せようとしたものはあの家?もしそうなら、なぜ?
玄関の左の部屋に灯りがともった。ギルドホールへ戻らなければ。
塀に沿って移動しながら窓の中に目をやると、アゲーリスと、しばらくしてヴェオヴィスが入って行くのが見えた。
ヴェオヴィスはしばらく扉のところで落ち着かない様子で立ち尽くしていたが、周りを見渡して罠が仕掛けられていないことに安心すると扉を閉め、机の上の書類を引っ掻き回しているアゲーリスに近づいた。アゲーリスは一冊の本を見つけ出すとヴェオヴィスに手渡した。
ヴェオヴィスは少しためらったが、開いてしばらく黙読した。再び顔をあげた時、その目は大きく見開かれていた。
その様子を見たアゲーリスはヴェオヴィスに正面の椅子をすすめると、微笑んだ。

アトラスはギルドホールに着くとまっすぐに自室へ向かった。
やらなければならない作業はあるが、今は手に付かない。なんというものを見てしまったんだろう。まったく、アナは正しかった。まっすぐマスター・ジェダーリスのもとへ赴き、メンテナーの手に委ねるべきだった。そうしなかった結果がこれだ。
ああ、今からでもそうすべきだろうか。しかし証拠はなにもない。ヴェオヴィスへのただの讒言と受け取られかねない。しかし…あれは一体なんだったのか。なぜあんな、およそ接点のなさそうな二人が奇妙な会合を?
アトラスは長い間じっと座ってまま想像をめぐらしたが、結局何も思いつかなかった。
アナ。アナなら分かるかもしれない。だが関わらないと約束した手前、彼女に相談するのは憚られた。手紙を燃やした時点で全て終わりのはずだった。しかし…なんてこった。
ヴェオヴィス。彼に会って、直接見たことを突きつけるべきかもしれない。
アトラスはしばらく考えて、頷いた。それが正しいように思える。そうだとも、影でこそこそするのは性に合わない。明日の朝になったらボートに乗ってクヴィーアへ向かい、顔を突き合わせて説明を求めよう。
アトラスは書類を押しやると部屋に鍵をかけて後にした。正門へ向かう静まり返った廊下を歩いて帰りながら自分に言い聞かせた。明日だ。明日になればすべてがはっきりする。

翌朝早くアトラスは目覚めた。昨夜の夕食の時、アトラスは自分の計画についてアナになにも言わなかった。
あわただしく朝食を食べていると、召使いがまた手紙を持ってやってきた。封筒の筆跡は、先日の謎の差出人のものと同じだった。
アトラスは封筒を長い間じっと見つめた後、ため息をひとつつくと爪で封を切った。中には先日と同じような短い手紙…だが、その手紙の内容は、ヴェオヴィスが一月前に失踪した二人の若いギルドマンの一人に送ったものだった。
アトラスは内容を読み、手紙の上部に書かれた日付を見た。それはギルドマンたちが失踪する前の日付だった。
「まさか」
アトラスはつぶやいた。
「そんなはず…」
手紙に付随したメモにはこうあった。
「私とお会いいただければもっと詳しくお教えします」
そして日時と場所。その場所は、ジ・テーリ地区のあの商館だった。
今アトラスの前には三つの選択肢がある。
マスター・ジェダーリスの元へ向かい、彼に任せる。
まっすぐクヴィーアへ向かい、ヴェオヴィスと対面する。
最後は、夜まで待って、このメモの主と会う。
常識的に考えれば、最初の選択肢だ。二つ目も、アトラスの誇りを損なうことのない選択肢だ。しかしアトラスは、三つ目の選択肢を選ぼうとしていた。
なぜ?アトラスは自分でもわからなかった。ただそうしたのだった。
アナ、許してくれ。アトラスは手紙をポケットに滑り込ませると、椅子から立ち上がった。

ヴェオヴィスは巨大な岩の上にアゲーリスと並んで立ち、はるか先まで広がる広大な草原を見下ろして首を振った。あらゆるものがどこかおかしかった。色は不自然で、木々の形や丘が形成された方法ですら、すべてが間違っている。それなのに存在している。
ヴェオヴィスは振り向き、ゴーグルのレンズ越しにアゲーリスを見つめた。
「これを作ったのは誰だ?」
アゲーリスは振り向き、ゴーグルの奥の目を光らせた。
「あなたの古い友人、アトラスですよ」
「ばかな」
ヴェオヴィスは吐き捨てた。
「アトラスの家は二つの時代を所有している。コアとジェメデットだ。どちらもメンテナーによる厳密なチェックを受けている。そのどちらか一つでもこんなようなものだったら…まあ、許可など下りてないだろうな」
「ですがこれは彼の『時代』なのです」
アゲーリスは微笑んでヴェオヴィスに接続書を手渡した。
「まさか…」
ヴェオヴィスは恐ろしいものでも見るようにページの筆跡を追った。間違いなくこれまで何度も目にした、アトラスの筆跡だ。
「実験をしているようですな」
アゲーリスは平板な声で言った。
「秘密の実験。まあギルドが知ったら眉をひそめるようなことですので当然ですが。そしてもちろん彼を唆しているのはあの女ですとも。さもなければ彼がドニの道を外れることはなかったでしょう。この狂った風景をご覧なさい、ヴェオヴィス。このすべてがあの女の狡猾な企みの影響なのです」
ヴェオヴィスは半分納得したように、アゲーリスに頷いた。
「アトラス、かわいそうに」
「同情なさるので?」
顔をあげたヴェオヴィスの目には一瞬怒りが走った。
「アトラスはいいやつだった。かつてはな。お前の言うように、あのよそ者が彼を籠絡し、堕落させたんだろう」
ヴェオヴィスは本を閉じてひらひらと揺らした。
「これが本物ならな」
アゲーリスは腕を出し、周囲を示して言った。
「疑いようがありますかな」
「いや…いや、今や明らかだ」
ヴェオヴィスは長い溜息をついた。アゲーリスは労るように言った。
「しばらく一人になりたいですか?」
ヴェオヴィスは悲しそうに微笑んで頷き、アゲーリスに向かって接続書を広げた。右側のページで接続窓が柔らかく輝き、ドニの書斎を映し出している。
アゲーリスはじっとヴェオヴィスを見つめた。
「もっとあるのです」
「なに?」
「彼が作った時代はこれだけではありません。行動を決める前に、それらをもっと見たいと思いますか?」
明らかにショックを受けた様子で、ヴェオヴィスは再び頷いた。
「いいでしょう」
アゲーリスは手のひらを突き出しながら言った。
「それではお先に、さようなら」
輝く接続窓に指が触れ、アゲーリスは一瞬で消え去った。
ヴェオヴィスは接続書を閉じるとポケットに入れ、再び顔をあげた。
奇妙な美しさのある世界。だがやはりどこか間違っている。
やめさせなければ。だがどうやって?もしこの情報を五元老にもたらせばアトラスは評議会を追放され、ギルドマンの資格も剥奪されるだろう。牢獄の時代に投獄されるかもしれない。それが違法な時代の作成に対する罰だ。同時に評議会におけるヴェオヴィスの敵対者が除去されるという意味でもあったが、それはあまり重要ではなかった。そもそもこんな、自身や家族を破滅させるようなことをアトラスがやるだろうか?あの女は害悪で、その子供も死んだほうがいいかもしれないが、ヴェオヴィスは未だアトラスに大いなる共感を抱いていた。最近の対立にもかかわらず、かつてアトラスがどれだけ優しく良い奴だったかを思い出さずにはいられなかった。
自分の視点を臆することなく言ってくれる、親友だった。
ヴェオヴィスは巨大な岩板の縁に足を投げ出して腰掛けて考え込んだ。彼をどうすべきか。
ヴェオヴィスは決めた。
待とう。そしてもう少しアゲーリスが証拠を集めたら、父の顧問に渡して話し合おう。
ヴェオヴィスは接続書を取り出して開き、子供のようにひょいと岩のむこうの空間へ飛び降りた。
崖を落下する瞬間、接続窓に手をかざしたその姿は空にかき消え、あとに残った接続書だけがそのまま岩と木々の間に落下して見えなくなった。

「しばらくここで待つように。主はもうじきおいでになる」
アトラスは、少年が去っていった暗がりの方に向かって歩いた。鏡がかかっていると思ったらそれは実際には窓であり、向こう側には一つだけの壁掛けランプに淡く照らし出された書斎が見える。
「変わってるな」
アトラスはつぶやいた。家の中に「窓」があるとは珍しい。
書斎の奥には机があり、一冊の本が広げられていた。右側のページが淡く光を放っている。ドニの接続書だ。
アトラスは驚いて見つめた。その目の前で机の前の空中に突然影が浮かび上がり、人の形をとった。
アゲーリス!
アゲーリスは「接続」の感覚をふるい落とすように体を揺らすと、机の向こう側へと周り引き出しのうちの一つから何かを取り出した。しばらく座ってその何かを眺めているようだったが、再び空気の乱れを感じて顔をあげた。二人目の人影がそこに現れようとしていた。
アトラスは目の前の光景に凍りついた。ヴェオヴィス!
ヴェオヴィスは振り向いてアゲーリスに向かって頷いた。
「いいだろう。それじゃあ他のものも見せてみろ」
立ち上がったアゲーリスは、その手に握った本をヴェオヴィスに手渡した。
「こちらです。今ここにあるのはこれだけですが、お望みならもっとお持ちしましょう。明日の夜などいかがです?」
ヴェオヴィスはしばらくその本を調べ、アゲーリスに返した。
「わかった。明日だな」
「この時刻に?」
「ああ、この時刻に」
ヴェオヴィスはそう言うと振り向き、ドアを荒々しく開けて出ていった。
アゲーリスはしばらく手元の本を眺め、机に置くと振り返った。視線はまっすぐ正面の鏡、マジック・ミラーの向こうに立つアトラスを見据えて。
「お待たせしました、アトラス」

「彼のやったことだと信じないと?」
アトラスはうんざりした顔をあげた。もう二時間に渡って、さまざまな手紙や書類を見せられている。すべてヴェオヴィスの筆跡だ。
直接罪になるものは一つもない。どれもがヴェオヴィスの関与を匂わせるにすぎないものばかりだったが、それでもアトラスを納得させるには十分だった。
机のむこうのアゲーリスは額に汗の玉をいくつも浮かべている。ろうそくの灯りのもと、少なくとも八十五歳よりも上のように見える。
「違法な本の取引をどれくらい続けていたんだ?…ヴェオヴィスは」
「二年、もしかしたら三年ですな、私の知る限りだと。いつから始まったのか私も知らんのですよ。彼は偉大な人物で、資産家だ。まったく驚くべき、信じがたい…恥ずべき行いですからな」
「まだだ」
手にした最後の書き付けを脇において、アトラスは言った。
「まだ全てを自分の目で見たわけじゃない」
そしてアゲーリスを見つめ返した。
「あなたはこれらをどこで手に入れた?」
「いろいろと伝手がありまして。そこから集めたものです。疑いが十分になるまで」
「そしてあなたは彼に本を売っていた。それらはどこで調達したのです?本が行方不明になったなど聞いたことがありませんが」
「彼の友人ですよ。スァルニルです」
「スァルニル!いや、しかし…」
アトラスはかつて目にしたことがあった。維持ギルドの業務には「不認可」の本を破壊することも含まれている。何らかの理由で動作しなかったり、不安定な時代へとつながったもの。それらはギルドの特別な焼却炉で焼き捨てられる。そしてその業務を担当していたのは…ギルドマスター・スァルニルだ。
「しかし、それならなぜ彼はヴェオヴィスと直接取引しなかった?」
アゲーリスは微笑んだ。
「ええ、彼らは友人です。だが…お互いに相手を信頼はしていない。そして、フフフフ、どちらも相手が取引に関わっているのを知らないのです。スァルニルは本を買っているのが誰か知らない。ヴェオヴィスも」
「供給元が誰か知らないということか…なんてことだ…それで?あなたはなぜすべてを僕に見せたんです?」
アゲーリスは身を乗り出した。その瞳には突然火が灯ったようだった。
「それは、誰も私の言うことになど耳を貸さないからです。だがアトラス、あなたは違う。できることがある。リラ卿に直接面会することさえ」
「あなたがこうする理由を尋ねているんだ」
「理由ですか…そうですな、私はかつて誠実な男でした。そして、濡れ衣を着せられ追放されました。やってもいない罪深い行為…それを…この君主の息子、ミミズにも等しいこの男がのうのうと行っている!それが理由です」
アゲーリスの顔は暗い怒りで満ちていた。
「分かるでしょう。私に会いに来たヴェオヴィスを、彼らは目にしたに違いありません。失踪したギルドマン。だから殺されたのです。ヴェオヴィスに」
部屋に静寂がおりた。「賢者」を、アトラスは冷たく見据え、しばらくしてようやく口を開いた。
「僕はお前を信じない」
「残念ですが真実ですとも。信じられないのなら──」
そして燃えるような眼差しで、机の接続書を指し示した。
「自分の目で確かめるんですな」

ヴェオヴィスは船から降り立つと、対岸、まだ深い眠りについているシティを眺めた。足元では緩やかな間隔で暗い水が船着き場の石に打ち寄せている。岸壁の縁の向こう側に突き立った柱の上で燃えるランプの灯が水面に反射している。
大空洞は静寂が満ち、他の生命はなにも存在しないかのようだった。空気中にかすかに、巨大な吸気ファンが起こす音が心音のように響いている。
伸びをしてあくびをする。頭を使いすぎた。このように疲れている状況ではどんな決定もうまく行かないことを、ヴェオヴィスは経験から知っていた。もう寝よう。そして明日の朝あらためてこの問題に対処しよう。
防波堤の階段を登ると、そこにリアニスが二人の召使いと一緒に待っていた。一人が外套を受け取り、もうひとりはランプで足元を照らしながら、一行は進みだした。
「上で待っていても良かったんだぞ、リアニス」
「お客様がいらしております、マイロード」
その知らせにヴェオヴィスは不穏な様子を感じ取った。まさか、アゲーリスとの会合を誰かに見られたか?もしそうなら、弁解は難しい。一行はアーチの下で立ち止まった。
「どこへ通した?」
「あなたの書斎へ。この件は細心の注意を払うべきと判断しました」
「助かる」
ヴェオヴィスはリアニスの腕を軽く叩き、再び歩き始めた。大きな扉をくぐり、天井の高い廊下を歩く。遅れないよう付き従う召使いのランプが、一行の影を前方に投げかけている。階段に差し掛かったところでヴェオヴィスはリアニスを再び振り返った。
「ここまででいい、リアニス。しばらくしたら召使いに一人、ワインを持ってこさせてくれ。何かあったら知らせを送る」
「かしこまりました」
リアニスはお辞儀をして下がっていった。
ヴェオヴィスは一人階段を登り始めた。召使いが高くランプを掲げ、できる限り歩きやすいよう照らしている。
書斎は左手だ。扉の前に立ち、ヴェオヴィスはしばらく心を落ち着かせた。事態はよくない。なにせ「国家の敵」と会っていたのだ。どうして?敵の信用を傷つけるためだ。それは単純で、どんな言い訳もきかない。しかし今、アトラスと違法時代について知った。これは十分な理由になるか?それか、会合を前もって知っており、その確認に来たのか…?
わからない。
ヴェオヴィスはドアを開け、口元に笑顔を浮かべて部屋に踏み込んだ。
「どうも皆さん…」
その笑顔は凍りついた。机の横のチェアから立ち上がったのは、あのよそ者の女だった。ティアナ。その腕には混血児が。背後でドアが閉じる音がするのと同時に、彼女はヴェオヴィスに詰め寄った。黒い瞳が彼を貫いた。
「彼はどこ?ヴェオヴィス。私の夫は?」

アトラスは書斎の机で、例の接続書を開いていた。アゲーリスの話が真実なら、この向こう側で二人のギルドマンの死体が見つかるはずだ。だがアゲーリスを信用するのか?
接続する先が実際にどんな時代なのか、誰に分かるというのだろう。大気に毒が満ちた死の世界である可能性だってある。それに、ヴェオヴィスに対する疑いの根拠、その殆どはアゲーリスが主張しているにすぎない。アトラスは本を閉じた。接続するにはリスクが高すぎる。せめて酸素マスクと、ドニに戻るための接続書を用意してから…
馬鹿な。アナとゲーンのことを考えろ。
アトラスは上質な皮紙を一枚取り、ペンを走らせた。宛先は維持ギルドマスター・ジェダーリス。この接続書は彼に送り、どうすべきか彼の決定に従おう。そしてしばらくアナとゲーンを連れてジェメデットに行き、この件とは距離を置こう。
アトラスは署名を終えると立ち上がった。考えることが多すぎて眠れそうにないが、ふとアナとゲーンの顔が見たくなった。ベッドルームへ向かい、暗闇の中から聞こえてくるはずの二人の寝息に耳をすませる。
聞こえない。
何も聞こえなかった。
アトラスはそっと部屋に入り、ベッドの横にかがみ込んで手を差し込んだ。ベッドは空だった。
立ち上がり、ランプを点ける。ベッドはきれいに整えられており…部屋に二人の姿はなかった。しばらくアトラスは頭が真っ白になり、立ち尽くした。いつから?四時間まえ、アトラスが出かけた時には彼らはここにいた。アトラスは部屋を飛び出すと、奥の部屋をノックし、執事を起こした。
「私が出かけたあとで誰か訪ねてきたか?」
「たしかメッセンジャーがひとり来ました…ギルドハウスからだと。お父上からあなたへのメッセージとのことで、ティアナ奥様が下りてこられ、私は手紙をお渡しいたしました。その男と何か話されていたようですが」
「内容は聞いたか?」
「いいえ」
アトラスは執事に感謝を告げて書斎へと戻った。メッセージの痕跡はなかったが、アトラスはアナがどう考え、行動したかはっきり思い浮かべることができた。アトラスはアナにギルドホールへ行くと言って出かけた。だから普通、メッセージはそこでアトラスが受け取るはず。
ということは、アトラスはギルドホールへ行っていないのだ。
アナはきっと匿名のメモを思い出しただろう。そしてさまざまな断片を組み合わせて、アトラスを追って出かけたに違いない。だがなぜゲーンも連れて?いや、それより何故こんな真夜中に?僕が戻るのをどうして待たなかったんだ?違う。彼女が出かけたのは僕の身を案じたからだ。何が彼女を不安に掻き立てた?いや、彼女は知っていた…なにか本能的なレベルで、すべての背後にヴェオヴィスがいることを感じ取っていた。ということは。
クヴィーアか!
アトラスはすぐにその考えに至り、そして確固なものになった。
そうだ、二人はクヴィーアへ向かったに違いない。アトラスはすぐに書斎を飛び出した。夜中であることを気にもかけず靴音を響かせて廊下を駆け抜け、玄関の扉を開け放ったところで目に飛び込んできたのは、門の前でランプを掲げる男たちと、その後ろに止められた暗い色の駕籠だった。制服姿の八人の担ぎ手が周りを取り囲み、その側に立って駕籠の中の誰かと話しているのは、誰あろう、ヴェオヴィスだった。
アトラスは思わずかっとなり、大股で近寄ると振り向いたヴェオヴィスと直面した。
「ここで何をしてる」
ヴェオヴィスは尊大な様子で見つめ返してきた。
「言え!何が望みだ!」
「望み?」
ヴェオヴィスの顔が険しくなった。
「お前に望むことなど何もない、アトラス。誇りを失ったお前になどな」
アトラスは逆上した。
「君が誇りを謳うのか?」
「誰がドニにとっての友人で、誰が敵なのか。俺に分かるのはそれだけだと言っている」
アトラスの心に憎しみが波紋のように広がった。殴りつけ、突進して地面に打ち倒してやる。
「僕が舌を引き抜く前にその口を閉じろ、ヴェオヴィス卿!」
ヴェオヴィスの目が燃え上がった。
「言葉に気をつけるのはお前だ。礼儀を教えてやらなければならんのか?」
アトラスは拳を握りしめたが、いま暴力は何も解決しないことに思い至ると心を強いて落ち着かせた。
「その言葉そのまま返そう、礼儀知らずはどっちだ、ヴェオヴィス」
「俺の敬意は安くないのでな。それにふさわしい相手にしか払わん」
アトラスは顔をしかめた。わざわざからかいにきたのだろうか?意味不明だ。ヴェオヴィスはどういうつもりで…いや、今は他に聞くべきことがある。
「妻はどこだ?ティアナをどこへやった」
ヴェオヴィスは冷笑を浮かべた。
「知らないのか、マスター・アトラス?夫なら当然妻の居場所は知っておくべきだろうに!」
アトラスは拳ひとつ分の距離までヴェオヴィスに詰め寄った。
「君が連れ去ったのか」
ヴェオヴィスはしばらく冷たい目でアトラスを見つめ返した。そして振り返ると、駕籠のカーテンを引いて手を突っ込むと、中に乗っていた人物を乱暴に引っ張り出した。アナだった。
アナはヴェオヴィスを睨むと振り向いて、駕籠の中の看護師の腕から眠る息子を取り上げた。
「可愛らしい組み合わせだな、お互いにどこにいるか知らんとは!」
ヴェオヴィスの口調には皮肉がありありと表れていた。
アトラスは気遣うようにアナを見たが、アナは今は質問には答えないというふうに首を振り、ゲーンをあやしながらアトラスの背後に移動した。
「…感謝します、ヴェオヴィス卿。ご迷惑をおかけいたしました」
「構わんさ。まったくな」
ヴェオヴィスの冷たい目はアトラスを見据えたままだった。

「マスター・アトラス。主がお会いになる」
アトラスはベンチから体を引き剥がすと、案内のギルドマンに従って廊下を進んだ。しばらくすると両側に警備の立つ大きな両開きの扉に突き当たった。
一週間にわたる良心との格闘にもかかわらず、アトラスにはどうすべきかわからなかった。もっとも心配なのはアゲーリスの暗躍だ。あの男にドニへの愛はない。そしてドニの愛すべき息子であるヴェオヴィスを引きずり降ろすこと、それは彼の復讐計画にぴったりだ。
幸いにしてアトラスはその本を目にし、接続書はいまも手元にある。ヴェオヴィスが関与しているのは間違いない。それにアトラスが最後に会ったときに垣間見えたアゲーリスの憤慨、燃えるような不平感は偽りではないように思われた。
アナはまっすぐマスター・ジェダーリスのところへ行って後のことはメンテナーにまかせなさい、といった。だがそれは事態がラケリ卿によって覆い隠されるということを意味する。アトラスはそれを良しとしなかった。
それで今日、アトラスはラケリ卿に会うため採鉱ギルドのホールを訪れたのだ。ラケリ卿はあたたかくアトラスを迎えた。温ワインの杯をはさんで、アトラスはラケリ卿にヴェオヴィスの行いについて話した。
アトラスはラケリ卿が涙を流すのを初めて見た。
彼はいつもアトラスを第二の息子のように慈しんでくれ、それはヴェオヴィスとの友情が失われたあとでも変わらなかった。しかし今、突然冷たさとよそよそしさをあわらにした老人は、厳しい目でじっと接続書を眺めたあと、頷いた。
「これは置いていきなさい、マスター・アトラス」
その声は固く冷たいものだった。
「この件は私が完全な調査を行う」

そして長い静寂の期間が続いた。
調査結果が出たのは、ラケリ卿との謁見からまるまる一月がすぎたころだった。
ドアが開き、アトラスは周りを見回した。大きな机の向こうに並び座る五元老の他に、部屋の左手にギルド書記が三名、右手には上位メンテナーが二人、そしてわずかに離れた場所にグランドマスター・ジェダーリス。
ヴェオヴィスの姿はない。
アトラスはほっとした。ただでさえ緊張しているのに加え、彼がそこにいたら事態ははるかに難しいことになっただろう。
「かけたまえ、マスター・アトラス」
書類から目をあげたリラ卿が促した。アトラスは椅子に座ると、ラケリ卿をちらっと伺った。ラケリ卿は落ち着かない様子で俯き、指でコツコツと革張りの本の表紙を叩いている。この問題が重く肩にのしかかっているのか、ここ数日体調がよくないように見えた。
リラ卿はアトラスをまっすぐ見据えた。
「君の話に基き、ジ・テーリ地区の館にはシティ・ガードの一団を差し向けて調査を行わせた。残念ながら、すでに君の話に出てきたような書類はメモの一片ほども痕跡が残ってはいなかった。そのような人物はどこにも存在しないとまでは言わないが、今の所その存在は君の話の中だけだというのが正直なところだ。君の言葉を軽視しているわけではないよ、マスター・アトラス…だが証拠とはならない。ドニの法ではな」
リラ卿はそこで一旦言葉を止め、さらに続けた。
「長い話し合いの上で、我々はこの接続書を使うリスクを冒すことはできないという結論に至った。第三の命を危険に晒すには無謀なチャンスだ。君のいうように二人のギルドマンの遺体がこの向こうにあるという直接的な証拠がなければ…」
「発言をお許しください、リラ卿。ですがこの状況、私かヴェオヴィス卿のいずれかが嘘つきなのだという状況は、私には耐え難いものです。もし他の者が行かないのであれば、私に行かせてください」
しばらく沈黙が流れた。
やがてリラ卿は頷いて言った。
「よかろう」
アトラスは立ち上がり、リラ卿に歩み寄って接続書を受け取るとその輝く窓に手をかざした。
しばしの静寂の後でアトラスが再び空間に姿を現した。その顔は蒼白だった。
「本当でした…遺体がありました」

その夜、ヴェオヴィスに対する逮捕命令が下った。日付が変わる頃になってもクヴィーアには煌々と灯りがともされ、あらゆる部屋ですべてのランタンが明るく輝いていた。
シティ・ガードと維持ギルド双方から派遣された者たちは部屋という部屋、廊下という廊下に立ち、今やこの島はすみずみまで詳らかにされつつあった。
島を形成する岩の中心部をつらぬく長い階段を上りながら、アトラスはこの事態について、自分が始めたことにもかかわらず、なにかおかしいと思い始めていた。
「本の間」の前にさしかかると、そこでは武装した維持ギルド兵の一隊が立ち並んでいた。家が所有する時代へ接続するために待機しているようだ。それはつまり、未だヴェオヴィスを拘束できていないということを示していた。
彼は有罪なんだ。アトラスは今更ながら驚きを感じていた。アトラスは未だ心のどこかで、全てはまちがいであり、なにかしらの説明が見つかるはずだと思っていたのだった。しかしそんなものはなかった。ヴェオヴィスが姿を消したのだとしたらその理由はひとつしか考えられない。
マスター・ジェダーリスは島のてっぺんに位置するラケリ卿の書斎でアトラスを待っていた。そこはありふれた、岩を削って作られた部屋だった。窓はなく、代わりに巨大な、本で埋まった書棚が壁にしつらえられている。
「おう、アトラス」
大きな机に置かれた接続書を調べていたジェダーリスが顔をあげた。開かれたページでは、接続窓が淡く光を放っている。
「ドニを上から下まで調べたが、ヴェオヴィスはおらんな。状況からして家所有の時代を調査するよう命令を下したが、我々が対処しなければならん問題が、もう一つある」
ジェダーリスは開かれた接続書の上で手をひらひらさせた。
「四時間前、一人のギルドマンがこの時代を調べたところ、丘のふもとで別な接続書を発見した。その接続先はまさにこの部屋だった」
アトラスは頷いた。ジェダーリスはしばらく黙っていたが、おもむろに立ち上がると言った。
「それじゃアトラス、私と一緒に接続してみるか?」

二人が接続したのは洞窟の中だった。外に出て調べた結果によると、その洞窟は大きな岩山状の島の西側にある丘陵に位置しているようだ。
大きな島の周囲を比較的小さな島々が散らばるように取り囲んでおり、それぞれの島は木の吊り橋で繋がっている。それらの島のうちのひとつが、失踪した二人のギルドマンの遺体が見つかった場所だった。
彼らは崖のそばの小屋に並んで横たわっており、手足は固く縛られていた。
死後長い時間が経ったようで、彼らの外套は自身の乾いた血で固くなっており、喉は左耳から右耳まで裂けていた。そしてそばの床には、彼らの殺害に用いられたであろうダガーが鞘に戻されることもなく投げ捨てられたように転がっていた。
それはヴェオヴィスのダガーだった。
アトラスは彼が持ち歩いているのを度々目にしたことがあった。
ダガーを見つめるジェダーリスの目つきが突然変わり、首筋の筋肉が奇妙に震えているのにアトラスは気づき、しばらくして納得した。殺された二人は彼の部下で、彼にとっては若い息子たちのようなものだったにちがいない。
それがこんなふうに縛られ無残に殺されたのを目の当たりにし、明らかに彼は深いショックを受けていた。
やがてメンテナーのチームが到着し、彼らの遺体をドニへ帰還させるとともに、アトラスとジェダーリスの二人もクヴィーアへと戻った。
そして、ヴェオヴィスがニドゥ・ジェマートで発見され、現在階下の本の間で拘束されているという知らせを受けた。
アトラスはジェダーリスとともに本の間へ向かった。
二人のメンテナーに挟まれ後ろ手に縛られたヴェオヴィスは、悔い改めた様子もなく反抗的に顔をあげ、その目は怒りに燃えていた。
ジェダーリスは鞘に収められたダガーをヴェオヴィスの目の前に掲げた。
「これはあなたのものですな、マスター・ヴェオヴィス」
「そうだ。それがどうした」
「否定しないのですな」
ヴェオヴィスは聞こえなかったように、ジェダーリスに向かって一歩踏み出した。
「なぜ私がこのような扱いを受けなければならん、マスター・ジェダーリス?このように動物のように縛るなど、まるで犯罪者扱いではないか!」
「遺体が見つかりましたよ」
ジェダーリスの言葉を、ヴェオヴィスは聞いていないようだった。
「私は普段は寛容な男だがな、警告するぞ、ギルドマン。今すぐこの縄を解け。さもないと父が黙ってないぞ!」
「これはあなたのお父上の命令だ」
ヴェオヴィスは黙りこんだ。その言葉は彼に冷水を浴びせたようだった。
「あり得ない。父上がそんな命令を出すはずがない」
「容疑を否認する、と?」
「容疑?」
ヴェオヴィスは冷笑し、わずかに首をかしげた。
「なんのことだ、マスター・ジェダーリス?いったい俺に何の容疑が掛かっていると?」
「違法な時代の取引ならびに殺人です」
ショックを受けたように表情を無くしたヴェオヴィスを見てアトラスは驚いた。ヴェオヴィスはしばらく言葉を発することもできなかったが、しばらくしてかぶりを振った。
「ばかな!俺はなにもやっていない!」
ジェダーリスは冷たく答えた。
「すでに証拠を得ています、だが裁くのは私ではない。少なくとも、私だけではない。…ギルドマスター・ヴェオヴィス。あなたをアーラット要塞へ移送し、裁判の日まで勾留する」
「…裁判?」
ヴェオヴィスは呆然としてつぶやいた。
ジェダーリスは頷いたが、そこに勝利の感慨はなかった。
「今日はギルドにとって悲しい日となった。ヴェオヴィス卿、あなたはギルドのみならず、お父上の名誉も汚したのだ」
「俺はやってない!」
ジェダーリスはヴェオヴィスを睨みつけた。
「もういい、黙りたまえ!さもなくば猿ぐつわをつけるぞ」
ヴェオヴィスは悄然として口を閉じた。
「よろしい。では移送する…彼をわが部下たちと同じ目に合わせるという誘惑に負けてしまう前にな」

家に戻ったアトラスは、窓のブラインドが降ろされていることに気づいた。家のあちこちを医師がバタバタと歩きまわっている。やつれた顔のタセラが出迎え、教えてくれた。
ゲーンの病気が悪化した。
症状はひどく、もう今にも死んでしまいそうなほどに重い。
もう他に手の尽くしようがなくなり、彼女が医者を呼んだのだった。
最悪の事態におののきながら部屋へ向かうと、ベッドのそばに憔悴しきったアナが座っていた。見つめる先には熱に浮かされた息子が横たわっている。まるで蝋人形のようだ。目は閉じ、呼吸は浅い。そばに黙って立っている医師の一人がアトラスに近づき、申し訳なさそうに言った。。
「我々にできることはもうほとんどありません。いろいろな治療を試しましたが…すぐに吐いてしまうのです。正直、今この瞬間にも創造主がお召しになるかもしれません」
アトラスは彼に礼を言い、アナの隣に膝をついた。
「ティアナ?…ティアナ、僕だ。帰ったよ」
「ああ…アトラス…ゲーンが、ゲーンが死んじゃう」
アナの表情は見たことがないほど痛ましいものだった。アトラスは勇気づけた。
「大丈夫、ゲーンはきっと乗り越える」
「いいえ、あなたはあれを聞いていないからそう言えるんだわ。あのゲーンの声…とてつもなく恐ろしい泣き声とけいれん…死んでしまったと思ったのは一度じゃなかった」
「ああ…しかし、彼はまだ生きている」
アトラスはアナの手を固く握り、顔を覗き込んだ。
「君があきらめてどうする、ティアナ?君が信じなければ」
「やってる、やってるわ。創造主はご存知よ。私が最善を尽くしたことを…でももう私…疲れたわ…とても」
「休むんだ、ティアナ。ここからは僕に任せて」
そしてアトラスはベッドにかがみ込み、ゲーンを抱き上げるとしっかり抱きしめた。ゲーンはすっかり軽くなってしまっていた。風が吹いただけでさらわれてしまいそうな…アトラスはその幼い体の柔らかさに震えを感じながら、そのまま彼を部屋から連れ出した。
「おいで、ゲーン。陽の光を見せてあげよう」

事件の要約文書から目をあげ、ヴェオヴィスはため息をついた。どれもこれも虚偽の内容だ。だがこのアトラスの訴状に説得力があることは認めざるを得なかった。五元老がこれを信じたら…いや、信じない理由があるか?俺は間違いなく有罪になる。
スァルニル。スァルニルが鍵だ。だが奴は消えた。
ヴェオヴィス自身の弁論はすでに書き上がり、机に置いてある。六ページからなる文書だが、控えめに言っても粗雑、悪く言えば嘘と言い訳の羅列だった。同僚のギルドマンたちがどう思うか、ヴェオヴィスには想像がついた。
彼らはヴェオヴィスに「証拠品」を見せた。接続書と、書類と、手紙。どれもヴェオヴィスの筆跡によるものだった。それらはよくできた偽造品、ヴェオヴィスが今までみたこともないほどよくできたものだった。そのうちの一つ、一文字ですらヴェオヴィスが書いたものではなかったからだ。
ヴェオヴィスはアトラスの仕業であると糾弾したが、それは彼らの想定内だった。そうするだろうということは十分に予想できることだった。
ヴェオヴィスの言葉に従い…もしかするとラケリ卿を宥めるためかもしれないが、彼らはギルドの記録の再調査さえ行った。過去にこのような詐欺の事例、アトラスの仕業であることを思わせる事例があったかどうか。しかし見つからなかった。
アトラスは賢い。ずっと正直な男を演じてきた。
だが今のヴェオヴィスはその蛇のごとき性根をよく知っていた。
牢の鍵が開く音がして、清潔なシーツの山を抱えた兵士が入ってくると、部屋の隅のベッドに置いて出ていった。その間、もうひとり別の兵士が扉のところに立ち塞がっていた。その光景にヴェオヴィスは笑い出しそうになった。こいつらは俺が逃げると思っているのだ。あほらしい。自らの運命から逃げ出すようなドニの君主などいない。
ヴェオヴィスは再び要約文書に向き直ると、遠くに押しやった。もう用はない。実際これに反論する手段はなく、幽霊を掴むようなものだ。
ヴェオヴィスはそれを理解した。幸い反省の時間だけはある。
アトラスはこれをどれくらい前から準備していたのだろう。おそらく俺が結婚式への出席を拒否したときからだろう。
立ち上がって体を動かしながら考える。
俺を引きずり下ろすことを、全てアトラスが望んだことなのだろうか?それとも他人の思惑があったのか?俺に見えていないものがあったのだろうか。
部屋を歩き回り、ベッドのふちに腰掛ける。
眠気を感じる。さすがに少し疲れた。あまりに立て続けに物事が起こりすぎた。
ヴェオヴィスは重ねられたシーツの山に手を伸ばし、ベッドに広げようとした。
おかしい。やけに重い。
持ち上げたシーツを下ろしてめくり始めたヴェオヴィスは、不意に眉をひそめた。
この硬い感触は…革張りの本だ!
ヴェオヴィスはそれを引っ張り出した。間違いない。接続書だ!
表紙をめくると右手のページでちいさなパネルが手招きするように輝きを放った。
これは罠だ。
それとも何らかのテストに違いない。ヴェオヴィスは本を閉じて床に置いた。
罠だ。明らかに。
だが…罠じゃなかったら?
もしかしたら父が遣わしたのかもしれない。ヴェオヴィスは立ち上がり、目を瞑った。どうする?これは自身の潔白を証明するチャンスだ。手をかざしさえすれば…
ヴェオヴィスはうめき、再び腰を下ろした。俺を馬鹿にしているのは誰だ?やつらは何があっても俺を有罪にするだろう。証拠は強固だ。それでどうなる?どこかの牢獄の時代のちっぽけな島にとらわれて来る日も来る日もただ過ぎ去る時を眺め続ける羽目になる。二百年!
そんなことには耐えられない。ヴェオヴィスは接続書を拾い上げると開いて手をかざし…接続した。

ヴェオヴィスが接続してしばらく後、だれもいなくなった独房にリラ卿が入ってきた。ベッドに置かれた接続書を見て、首を振る。しばらくして、廊下の奥から叫び声が聞こえてきた。呪いの言葉がしだいにうめき声へと変わる。
わかったであろう、ヴェオヴィス…その知識が一体お前になにをさせたか。
リラ卿は悲しげにうつむいた。
ヴェオヴィスが使った接続書の先は、別な「時代」にある閉ざされた小さな空間だった。一つだけ置かれたテーブルの上には別な接続書と、酸のボトルが置かれていた。それは逃走のための古い手法で、ヴェオヴィスは当然何をするべきかわかったことだろう。
しかしその接続書の先は…再びドニだった。この廊下の端にある尋問室で、そこにはマスター・ジェダーリスと兵士が待ち構えていた。
リラ卿はため息をついた。ヴェオヴィスはこれがテストだとわかっていただろうか。それとも傲慢がその目を曇らせたか。
振り向くと、入り口にラケリ卿が佇んでいた。暗い目は、息子がやったことを理解していた。
「残念だ」
リラ卿の言葉に、ラケリ卿は首を振った。
「為すべきことを為したまえ。あやつはもう、息子ではない」

目を覚ましたアトラスは、自分がどこにいるのか思い出せなかった。
明るい。いや、明るすぎる。ここはジェメデットに違いない。
アトラスは手探りで眼鏡を探し当てるとそれをかけ、ゆっくりと目を開いた。眼鏡のフィルターが明るさを耐えられるレベルまでカットしてくれる。
朝だ。いや、昼過ぎかもしれない。いったいどれほど眠っていたのだろうか?
アトラスは突然思い出した。
「ゲーン!」
上半身を起こし、急いであたりを見回す。アトラスは胸をなでおろした。ゲーンは三フィート先で静かに、昨夜アトラスが横たえたとおり毛布にくるまれていた。ゲーンも同様にちいさな眼鏡をかけ、天井部分の岩をくり抜いた窓から差し込む光から目を守っている。
アトラスはゲーンを抱え上げ、額にそっと手をかざした。
熱は下がっていた。
アトラスを見つめ返すその目、好奇心に満ちたその目は穏やかで優しい。ドニの目だ。医者たちがなんと言おうとも、ドニの目だ。
「頑張ったな」
アトラスはそう言って、誇らしい息子に笑いかけた。
「どうだ、君にできることは何もなかった。ゲーン。それでも君はやり遂げた、生きてるぞ!」
外でなにか物音がして、アトラスは振り向いた。森の動物がキャンプを嗅ぎ回りに来たのだろうか?
アトラスは笑顔になった。あの優しいハミングはアナの声だ!
アトラスは立ち上がり、ゲーンを抱えて表に出た。アナはアトラスに背中を向けた体勢で、滝から立ち上る霧に満ちた渓谷を眺めていた。
アトラスはただ立ち止まって、アナの豊かな長い髪が降り注ぐ陽光の下でくるくると揺れるのを見つめた。
「ティアナ?」
「いつ起きるのかと思ってたわ」
笑いながら振り向いたアナに、アトラスはゲーンを持ち上げて示した。
「見てくれ、熱が引いたんだ」
「知ってる」
アナはそう言うと、アトラスに近づいてゲーンを腕に受け取った。
「早朝、ここに着いたときに。それで二人ともこのまま寝かせておこうと思ったの」
アトラスは空を仰いだ。すでに太陽は西に傾いている。
「もうこんな時間か。僕らはどれくらい眠っていたんだ?」
「丸一日かそれ以上」
アナはそう言って笑顔になった。
「あなた、顔色がよくなったわよ」
「まあね…そうだ、夢を見たんだ」
「夢を?楽しい夢だった?」
アトラスは微笑んだ。
「うん。僕と君、そしてゲーンで、地表へのトンネルを歩いている夢だった。昔話してくれたさまざまな場所に連れて行ってくれるんだ。例えばタジナーだとか」
「ロッジとか?」
「ああ」
アトラスは頷いて、そこに本当に見えているかのように目を細めた。
「夢の中で僕らはロッジの窓際に座って、砂漠を眺めていた。空には満月と一面の星。そしてゲーンの寝息が後ろで聞こえていた」
「いつか本当になるわ。きっと」
「君もそう思うかい?」
アナはしばらく黙り込んで、言った。
「聞いたわ…ヴェオヴィスのこと」
「ああ…僕はどう思えば良いのかわからない、ティアナ。僕の知るヴェオヴィスという男は、決してこんな行いをする人間じゃなかった」
「でも、人は変わるわ」
アトラスはアナの目をまっすぐ見た。
「そうだろうか…アナ。僕にはわからない。彼に限って、今でもそう思っている。ヴェオヴィスは友達じゃないが、僕を友達と呼ぶ誰よりも、彼を信頼しているんだ。それに忘れたかい?あの時、彼は君をうちへ送り届けてくれたんだ」
「あれは一般的な礼儀としてでしょう」
「そうだろうか?…それが二人のギルドマンを冷酷に殺害した罪で起訴されている男と、同一人物だと本当に思うかい?」
アナは困ったようにうつむいた。
「ええ、だって…あなたは聞いてないのね」
「聞いてないって、なにを?」
「五元老は彼を試したの。アーラットの独房にいる彼に、ひそかに接続書を渡して。彼はそれを使って逃亡しようとしたわ。誇り高い男がそんなことをするかしら」
アトラスはしばらくアナを見つめ返していたが、やがて目を落とした。
「ということは結局、容疑は正しかったのか」
「その可能性が高いわね」
「ラケリ卿は?その知らせを聞いてお加減はどうなんだ?」
「良くないわ」
アナはそう言って、ゲーンをやさしく抱きしめた。
「知らせを受けてすぐ床に伏せてしまったそうよ。危篤だという人もいる」
「ドニにとってとても…とてもひどい日になってしまったな」

大ギルドハウスへ続く狭い通りを、ヴェオヴィス乗せた二頭立て牛車が進む。証拠が固まってから二十日が経ち、評議会は評決を下した。これほど高位の公人が裁判にかけられたことはかつてなかった。これほどの凶悪犯罪を犯したことも。
違法な本の取引も十分に悪事であるが、仲間のギルドマンを殺害するなど前代未聞だった。
人々は、まさに物語の悪役といえるヴェオヴィスをひと目見ようと上層街に群がった。
あるものは彼を、十分に裕福でありながらそれに満足できない強欲な男だと言った。
またあるものは彼を偽善者と評し、無実であるという主張は、重い現実を直視できず精神が不安定になっている確かな兆候だとした。
そんな雰囲気の中ヴェオヴィスは牛車を降り、ギルドハウスの大理石の階段を昇って、傍聴人で一杯の大ホールへと進んだ。
今回に限り一時的な傍聴席がホールの一方に設けられ、評議会から喚問された数十人の証人たちがそこに座った。その中には死んだ二人のギルドマンの家族、アゲーリス、そしてアトラスの妻、ティアナの姿があった。
アナは今やドニ市民だった。一週間前に内輪のセレモニーを行い、その地位を法によって認められたのだ。
それは前例によるものだったが、評議会により承認されたものであった。
刻限となり、巨大な扉からヴェオヴィスが歩み出た。
大ホールには沈黙が落ち、全員がヴェオヴィスを注視していた。
髪を切り、無精髭をはやしたヴェオヴィスはシンプルな錆赤色のワンピース姿だった。その腕にはめられた鉄の手枷は、短い鎖で両足首の枷に繋がっており、鎖の終端は後ろに立つ大柄で強そうなメンテナー兵の手に握られている。
それでもヴェオヴィスは俯くことなくまっすぐ立ち、その目は屈することのない鷹のごとき誇りがあった。しばらく立ち止まった後、大きな柱の間を抜けて広間の階段を降りていく。その先、ホールの中央にはドニの偉大なる中枢である五元老の席が並んでいる。ただ、今日はその席は四つしか埋まっていなかった。
目前まで歩いてきたヴェオヴィスを見つめる元老たちはまるで石像のようで、その様子は威厳に満ち溢れていた。
しばらくの期待と緊張に満ちた静寂の後、リラ卿が口を開いた。
「皆のもの、心は決まったか?」
ホールすべてのギルドマンが唱和する。
「然り!」
「皆の決定やいかに?」
再び唱和する。
「有罪!」
それで終わりだった。ヴェオヴィスはわずかに震えているようだったが、頭はしっかり前を見据え、その目に何かを後悔する気配は見られなかった。むしろ、前にもまして反抗的な様子に見えた。
リラ卿は冷たい眼差しでヴェオヴィスを見据えた。そこに慈悲の様子は見られなかった。
「私の宣告の前に何か言いたいことはあるかね、マスター・ヴェオヴィス」
ヴェオヴィスはその冷たい目をまっすぐ見つめ返し、そして首を振った。
「よろしい。では判決を申し渡す。今この時点より、マスター・ヴェオヴィスの全ての階級を剥奪し、ギルド員としてのあらゆる権利を無効とする。さらに十五日と十七時間以内に適切な牢獄の時代へ移送し、以後の人生をそこで過ごすように命ずる」
全員の目がヴェオヴィスに注がれた。
アナの座っているギャラリーからは、この最後の瞬間にあってもヴェオヴィスが堂々と威厳を損なわず立っている姿がよく見えた。その様子に、アナの心にも僅かな疑問がよぎった。彼は本当にやったのだろうか?
だが彼は…有罪となった。
アナ自身、この二十日の間に十分聞いて、また目にしてきた。
アナはヴェオヴィスから視線を外し、身を乗り出すように座るアゲーリスの様子を窺った。
あの目の輝きはなんだろう?正義がついに執行された喜びというよりも、単にヴェオヴィスの不幸をあざ笑っているような…
アナはちょっと視線を落とし、嫌悪の震えが体を駆け抜けるのに耐えた。そして振り返り、ヴェオヴィスのすぐ後ろの最前列に座っているであろう、アトラスの姿を探した。
中央ではヴェオヴィスが踵を返して再び広間の階段を昇ろうとしていた。彼はアトラスの手前で立ち止まり、そこに座るかつての友をしばらく見下ろしていたが、なにかを口にすると、ふたたび階段を昇っていった。
やがて元老が閉会を告げ、みな立ち上がってがやがやと会話が始まる中、アナは急いで階段を下りアトラスのもとへ向かった。アトラスは少人数で集まり議論を交わすグループの中に立っていた。アナがその輪の中に割り込むと、メンバーは敬意を込めてアナにお辞儀をして一歩下がった。
「アトラス、彼はなんと?」
「ティアナ。…ここじゃまずい」
アナは眉をひそめた。
「なにか脅すようなことを?」
アトラスは首を振ったが、どことなくぎこちなかった。申し訳無さそうに周りを見回して、アナの手をとると輪から連れ出した。誰も聞いていない場所まで移動したところで、アナは再び尋ねた。
「それで?」
アトラスはアナに背を向けたままだった。その顔は白く、当惑しているようだ。
「彼は僕を恨んでいる」
「彼がそう言ったの?お前のせいだ、とか」
アトラスは首を振った。
「アトラス、教えて。彼はなんと口にしたの?」
アトラスは振り向いた。
「『お前は俺を放っておくべきだった』と」
「でも、あなたのせいじゃないわ」
「そうだろうか?さっき彼を見て…これまでさんざん証言や証拠を見た上で、僕はそれでも彼が潔白だと感じた。確かに感じたんだ。でも僕は有罪と声をあげて、そして彼を牢獄へ送った」
「どうすべきだと思ってるの?例えば…元老になにか上申する、とか?」
アトラスは悲しそうに笑った。
「僕に言えることなんかないよ。そう、このまま間違ったかもしれないという気持ちを抱えて生きていくしかない。そう、車輪を回したうちの一人として…人ひとりなんか簡単に叩き潰してしまう、ドニという大いなる車輪を」
二人はしばらく黙ったまま立ち尽くした。
やがてアナはアトラスの手をとって、外へと連れ出した。
二人がギルドハウス正面の巨大なアーチを通り抜けようとしたところで、不意にエーグラ中から鐘の音が鳴りはじめ、大空洞いっぱいに響き渡った。
ラケリ卿が死んだのだ。

第六章へつづく

The Book of Ti’ana © 1996 Cyan, Inc.